心が主と離れてしまう理由【Ⅱコリント3:16】

2022年

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

Ⅱコリント3:16

 

何をするのも、祈ってから・・・って思いつつも。

「これぐらいは祈らなくても大丈夫だろう」「これはいつもしている事だから・・」

私たちは、何かと理由を付けて祈るのを省こうとする習性があるような気がします。

「主を信じます!」と信仰告白をしながらも、自立できる部分は自立しようとします。

これぐらいは、自分で上手く出来ると過信して、直ぐに自立しようとするのです。

これは、うぬぼれです。

この様なうぬぼれ・過信は、私たちの行動や思いを通して少しずつ広まっていくのです。

無意識なうちに、少しずつ少しずつ、自立しようとする部分の割合が増えて行くのです。

 

しかし、私たちはぶどうの木のぶどうと同じで、主から離れてはその実は成熟しませんし、枯れてしまうのです。(ヨハネ15章)

ぶどうの実は雨が降ろうと、風が吹こうと、日照りが続いても、寒くても、心地よい天気であったとしても、枝に繋がっているという事が一番大切なのです。

 

主が望まれているのは、どのような状況でも主を求める姿勢です。

主は日々語られています。自然の摂理を通して、今日も変わらず主が存在していることを。

日々の出来事を通して「私に語りかけて欲しい」と望まれています。

主は無理やり私たちと目を合わさせるような事をさせません。

私たちをずっと待って下さっているのです。

主が与えて下さった自由意志で、自分を過信して主を抜きで物事を考えるのではなく、主が与えて下さった自由意志で、一回でも多く、主と目と心を合わせるという選択したいです。

今日も一日、自分の心を主に向けましょう!

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