あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
ヨハネ14:1
先日、私の韓国の知り合い、Aさんから連絡がありました。
Aさんを思い出すと、同時に自分に対して1つの問いかけが出てきます。
「私は本当に本当に、主だけを信じれているのだろうか・・」という思いが頭を過ぎるのです。
「イエスさまを信じますか?」と聞かれたら何と答えますか?
「はい!もちろん信じます!」と答えますか?
私もそのように答えます。
主の事は大好きですし、信じているので。
しかし同時に、「私は本当に主を信じれているのだろうか・・」とも思うのです。
Aさんは、子どもの頃から凄く苦労して育ちました。
Aさんの家庭は凄く貧しく、母親に「中学には行かず、工場で働いて欲しい」と言われたそうです。(当時、韓国の義務教育は小学校まで)
小学校を卒業した子どもが、大人と混じって仕事をするのです。
軽くあしらわれ、暴力を振るわれ、バカにされ・・・沢山傷ついたのです。しかし、10代前半の子どもですから他に逃げ場を持てなく、そこで長年耐えたのです。
家に帰れば、アル中の父親がおり、働かない父親に代わって、母親は夜中まで仕事をします。5人兄弟でしたが、皆少し大きくなると何も言わずに家を出て行き、何年も音信不通なのが当たり前の家庭で育ちました。
Aさんは成人し、30歳を超えても40歳を超えても・・・「自分の人生は虚しいのが当たり前」という思いから解放されませんでした。
Aさんは工場で働き出した子どもの時に教会へ導かれ、信仰を持つことができました。
私と出会った時は、Aさんはしっかりした信仰を持っておられる方だと思いました。
しっかりした信仰を持っていながらも「自分は幸せには生きては行けない」という思いから離れる事が出来なかったのです。
Aさんは結婚した時「幸せを感じている自分が怖い・・」と幸せを感じながらも、同時に不安に襲われていました。
Aさんは知人に、新しい高価な財布をプレゼントされた時、驚くほど雑に扱っていました。
私は思わず「これブランド!すっごく高いものなんだよ!! もっと丁寧に扱ったら?」と言ったら、「知ってる・・でも高価な物は落ち着かない・・」といい、ずっと雑に扱い、あっという間に年季の入った財布となり、Aさんはその時点から、その財布を大切に扱うようになったのです💦
私はAさんを見ると、いつもため息が出て・・・「Aさんは何を信じてるの?自分は幸せになってはいけないという事を信じてるよね? それ誰が言ったの? イエスさま?」と言ってしまいました。
そのように偉そうに言った私。
Aさんも分かっているけれど、幸せは居心地が悪く落ち着かないのです。普段着ているラフな服でなく正装を着たかのように。それよりも貧しくても悪条件でいる方が、自分の居場所だと言わんばかりに落ち着くのです。
Aさんの心の傷が深く、まず癒しを受けることを共に祈らないといけないのに・・・💦
主を信じながらも、主とは違う思いから解放されずにいる人が多いのかもしれません。
Aさんを思い出しながら、自分にも長年、思い違いをしていた事を思い出しました。
私が小学校低学年の時、2人の兄は中学生でした。
ある日、父親が「今年の夏休み、兄2人と一緒に富士山に登る!」と言ったのです。
私と、幼稚園の妹は「私たちも行く!! 行きたい!!!」と大騒ぎし、父親にせがみました。
困った父親は「富士山ってさ・・日本で一番高い山だろ? すっごく険しい山なんだよ。男の子しか行けない山なんだよ。女の子は入れない。」と言いました。
それを聞いて、私と妹は、燃えていた火が一瞬にして消されたように、直ぐに諦めました。「すっごく険しい山」「男の子しか行けない」「女の子は入れない」という言葉に、自分は無理だと感じたからです。
そして月日は流れ、私は成人し社会人になりました。
ある時、同僚の女の先輩が、「次の休暇に富士山デビューする~!」と言うのです。
思わず「え・・・女の子は登山できないんじゃないですか??」と言ってしまいました。
先輩は「え??どうして?どうして女の子は登山できないの?(笑)」と言い、
それを聞いた私は、「あ・・・💦」
そういえば、テレビで女の人が富士山を登山している姿を見たことが何度もある・・💦と気付いたのです。
テレビやニュースなどで、女の人が富士山に登ってるのを見ていたのに、「女の子は登れない山」という情報が絶対的なものになってしまっていて、テレビで見ていたのに、見えていなかったのです。
自分で自分に驚きました(笑)
普通に考えても分かることなのに・・・💦
父親に言われた一言が「あ・・私には無理なんだ」と信じてしまったのです。
そうなんだと決め過ぎ、諦めてしまったのです。
間違った事を、ギュッと握りしめ信じると、私がニュースで見ていても見えなかったように、主が何と語ろうと「自分は幸せになってはいけない」という考えから離れる事が出来なくなるのです。
「喧嘩した時は無視が一番!」だと信じる人は、喧嘩をしたら当たり前のように無視します。
「〇〇な人は負け組!」そう信じている人は、該当する人をそのような目で見たり、または自らがその条件に当てはまったら、自分は負け組だと思い込んでしまうのです。
「自分は幸せになる資格はない」と信じている人は、幸せの選択を避けて生きて行くのです。
何を信じているかが、その人の心を支配し、行動にも影響し、人格や人生に影響を及ぼすのです。
自分の中に、知らず知らずのうちに、真実とは違う思い込みをしている事が、まだまだあるかもしれません。
自分に対する否定的な言葉だったり、世の中の意見や判断、常識や習慣などが私の中で根付いているかもしれません。
私は本当に聖書に基づいて判断し、聖書に基づいて自分と言う人間を受け入れることが出来ているのだろうか。
これは主に祈って、私の中に正しくない思いや考えが存在しないか探って頂くしか気付く方法がないかもしれません。
聖書を読む時、素直な気持ちになって「アーメン!」と受け入れていく必要があります。
自分の心の中に、主の思いとは違うものが存在し私の心を支配していないかどうか、祈る一日とします。
皆さんも、沢山の間違った考えや思いから解放される日となりますように・・・