だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
マタイ7:24-27
日々、すごく寒さが増してきました。
雪が降ると思い出す話があります。
仕事で成功を治めた男の人がいます。毎日忙しく仕事をこなします。
しかしこの人には問題が1つありました。アルコールに依存していたのです。
朝から飲まないとスッキリ一日を始めれないのです。
出勤する道中、決まったお店に寄り一杯飲んでから出勤するのです。
この習慣を辞めたいと思いながらも、どうしても辞める事が出来なかったのです。
そして、ある雪の日、いつものように家を出て会社に向かいます。そして特に考える事もなく、その足はいつもの店に立ち入ろうとしていました。
そしてふと気付いたのです。
後ろから自分の愛する小さな息子が自分の後を追ってきたのです。
父親の雪の上に残した足跡を辿り、父親の足跡の上に自分の足跡を重ねて楽しそうに歩いて、父親の後を追って来るのです。
その子どもの姿をみて、この男の人は怖さを感じ、罪悪感を覚え泣いて祈ったそうです。
自分の残した足跡を、そのまま我が子が歩んでも良いのだろうか?
我が子に自分と同じ人生を導いて良いのだろうか?
「自分が求めるまま、流されるままに生きて行けば、この子どもも同じ道を歩ませてしまう」
「親として、子どもを正しい道に導けるように助けて下さい!」と祈ったそうです。
今まで、この習慣は良くない・・と思いつつも、生活に支障がなく、仕事にも支障はなく、健康にも支障がなかったのです。
だから、深く物事を考えず、「良くない」「これは主が喜ばれていない」と感じながらも、気が向くまま過ごしていました。
「良くない」と思いつつもそれが日常となってしまっていたのです。
愛する息子が、楽しそうに父の姿を追い、父の足跡に自分の足跡を重ねて向かって来る姿。
その姿を見て、今ある自分の姿そのままを、子どもにも歩ませて良いのだろうか。
父親として、恥ずべき姿を見せているのではないだろうか。
「これは主が喜ばれていない」と感じる事に敏感になる必要があります。
信仰は、問題がある時より、問題が無い時の方が気を付けるべきです。
問題がある時は、熱心に主に依り頼みます。主を求めるのです。
しかし、抱えていた問題が解決し、人生が順風満帆になると人は「主がいなくても生きていける」と思ってしまうのです。
日本のクリスチャンは、信仰を持ち平均3年程の時に、信仰から離れる方が多いと言われています。
信仰を持ち、罪赦され喜びに満たされた思いを経験しても、問題が解決していくと、自分だけでもやっていける・・・と思ってしまうのです。
毎週教会に通い、礼拝を捧げる時間が勿体なく感じるのです。
忙しさにかまけ、聖書を読まない日が少しづつ続いても「あ・・でも大丈夫・・日々生きていけている」と思ってしまうのです。
信仰にとって気を付けるべき時は、何もない日常です。主の前に跪き祈る事を忘れてしまうのです。
毎日のルーティーンです。考えなく物事をこなせるからです。
自分の頭の中で思い描く事。「今日は、アレをしよう。午前中にアレをして、午後からはアレをしよう・・」と考える時、
「主よ、私は今日、アレをしたいと思います。午前中にアレをして、午後からはアレをしたいと思っています。どうでしょうか?」という考えに変えるのです。
自分一人の思考の中に、主を存在させるのです。
独り言に主をからめるのです。
主をグッと近くに感じれます。
今日も、主と共に歩む一日をお過ごしください!