15 神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられれる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。
16 あなたがたは言った。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追ってはなお速い。
17 ひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。
18 それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
イザヤ30:15-18
今日のこの聖書の箇所・・・凄く考えさせられます。
ユダヤの人々は、他国民が攻め入って来た時、主は、預言者イザヤを通して「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」と語られました。
しかし、民はエジプトに助けを求めてしまうのです。
民の耳には、主の言葉は耳に入らず、イザヤに隠して使いをエジプトに送り、保護を求めました。
ユダヤ人にとってエジプトはどの様な国でしょうか?
ユダヤ人にとって、エジプトは、奴隷として虐げられてきた国です。
苦役を虐げられ十分に食べる事も出来ず、自由を求めて、モーセと共に脱出してきた国なのです。
40年もの長い期間、荒野のさまよいを経て、やっと主が約束してくださった地に辿りついた所に、民は居ることが出来ているのに・・です。
また、虐げられたエジプトへと、戻って行こうとしているのです。
どうしてでしょうか?
ユダヤ人は、エジプトで苦役を課せられましたが、エジプトは強豪で豊かな国であると知っているのです。
他国民が攻め入ってくるという、目の前の恐怖や不安から、自らの知恵に頼り、とんでもない判断をしてしまうのです。
エジプト王に助けを求めようと、財宝を持たせ使いを送ってしまうのです。
主は、はっきりと「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」と語られたのに・・・
ユダヤ人の姿は、私たち、人間の姿です。
私たちは主イエスを悲しませる決断をよくしてしまいます。
目の前に恐れや不安が近づくと、目に見えるものだけに目を奪われて、自分の求めに従います。
私たちは、自分たちが求めている声だけに、耳を傾けてしまうのです。
私たちが今生きている時代・・・コロナもあり、戦争もある時代です。
戦争なんて、昔に起こったことで、現代には関係がない話ではないのです。
ウクライナも前日まで、明日戦争が起こるなんて、想像さえ出来なかったのです。
戦争の心配もせず、過ごしていたのに、ある日突然、巻き込まれるのです。
日本は地震もあります。予期できず起こってしまうのです。
何が起こるか分からない時代に生きているのです。
問題や困難が、自分の内側(心の問題)から起こるだけでなく、
外側(戦争、災害、食料危機、温暖化、エネルギー問題・・・)からも起こってくるのです。
私たちは、「備え」が必要です。
備えとは何でしょうか? もちろん防災グッズの様な者も必要ですが・・・
クリスチャンとして、どの様な備えが出来るでしょうか?
主は困難な時に、私たちを必ず助けて下さいます。
語りかけてくれるのです。自分の内なる声や聖書を通して、また牧師先生を通してかもしれません。
私たちは、目の前に想像を超える困難が降りかかった時、ユダヤ人のように、自らの知恵に頼り、逆の方向に向って走り出さないようにしないといけないのです。
ですから、今から! 準備をしましょう!
聖書を読んで、主との関係を深くするのです。
主の語りかけを体験するのです。聖書を読み、祈りが必要です。
物事を見た時に、反射的な祈りが出るように、霊的な成長が必要です。
主と深い関係、絆を持つのです。主はそれを望んで居られます。
困難を目にして、いきなり揺るがない信仰を持つのは難しすぎます。
今から、困難に備えるべきです!
主は必ず私を助けて下さる。という信仰を、今から固く持てるように!
今日から、始めましょう!
常に自分の中心に主を置く練習です!
私も、今日、主を何度も思い起こす練習をします!
良き一日となりますように・・・