主が、心底、私たちに望まれていること【Ⅰテサロニケ5:16-18】

2022年
Easter themes with three cross on a hill representing the crucifixion event in Christian history.

いつも喜んでいなさい 絶えず祈りなさい 全ての事に置いて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

(Ⅰテサロニケ5:16-18)

主が私たちに望んでいる事・・・

それは「いつも喜んでいなさい 絶えず祈りなさい 全ての事に置いて感謝しなさい」

「いつも喜ぶ」というのは、文字通り、いつもニコニコ愛想よくするという意味ではないです。

人生は、どちらかというと、幸せを感じるより、苦しみや悲しみを感じる瞬間の方が多いとも言われています。そのような人生で、いつも喜んでいるというのは難しすぎると思いませんか?

人間が持つ、自然な感情を意味するのではなく、

私たちの罪が許され、主は共に居て下さり、また永遠の命の約束を頂いている事を常に記憶し、いつも喜びを持ちなさいと言う意味だと思います。

主が2つ目に望まれている事は「絶えず祈る」です。 これも、もちろん文字通り24時間祈り続けるという意味ではなく、「主の臨在を常に意識する」ということです。

ふと思い出した人や、すれ違った人、ニュースで気になった人、、、常に主を意識出来ていれば、反射的に祈りが出てきます。

特別な祈りの時間を持つことも、とても大切ですが、このような反射的な祈りも重要です!

3つ目は、「すべてのことについて感謝しなさい」と言われています。

人は自分の事柄が上手くっている時に、感謝をするのは簡単です。

しかし、この個所には「全ての事について」と書かれています。自分の目に良いものが与えられた時だけではないという意味です。

 

このⅠテサロニケを書いたのは、パウロです。

パウロがこの手紙を書いた当時は、獄中に居り24時間監視をされていたと言われています。

パウロは。自分の置かれた環境に左右されず、どの様な状況でも、いつも喜び、絶えず祈り、感謝に溢れていました。

パウロが獄中に身を置きながらも、そうできたのは、「主にあって」です。

自力でするのは、どれ一つ無理なのです。「主にあって」出来るのです。

「主にあって」とは、主が私の為に、十字架に架かって下さるという、

「最大の恵み」が、今現在も私たちの内にあるから・・・と言う意味です。

主によって与えらえた恵みによって、これらが可能となるのです。

 

韓国の牧師、ジョン・クゥアン師に、この様な言葉があります。

「幸せは持っているものに比例するのではなく、感謝に比例する。自分の人生のすべてのことを感謝だと感じられれば、それに比例して幸せも大きくなる。

ではどのように感謝することができるだろうか。お金をたくさん稼ぐこと、持っている不動産の値段が何倍にも跳ね上がったこと、商売がうまくいくこと、良い学校に合格したこと、就職したこと、進級したことなどはすべて感謝の対象となる。

しかし聖書は、このような感謝はだれにでもできる感謝だと言っている。

では、私たちがささげることのできる感謝とは何か。

「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によってやすらぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3:17)

イエス・キリストを送ってくださったことにより、死から永遠のいのちに移されたことよりも尊く、価値のある贈り物が他にあるだろうか。だからこそ私たちは、イエスの十字架を見上げて感謝しなければならない。これがすべての感謝の基本であり、始まりである。」

 

今日も、「いつも喜び、絶えず祈り、常に感謝する」という事を選び取って下さい。

キリスト者とは、願い事だけを要求するのではなく、

主が私に臨まれている事を知ろうとし、実践しようとするのが本当のキリスト者です。

良いものを選び取る1日となりますように!!

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