人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。
人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。
あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。
箴言16:1-3
今日の御言葉は、私が求道中に出会った御言葉です。
「うわ・・・・すっごい御言葉💦」と思ったのを覚えています。
当時の私は、もっと仕事がしたい。もっとスキルアップして仕事をして行きたい!と思っている時でした。
私の心の中には計画ばかりでした。でもそれは、人を蹴落としてまで自分がのし上がろうという思いはなく、自分の良心に反しない、自分の中では正しさを持った思いでした。
この御言葉を読んだ時、
「確かに・・自分が綿密に調べ努力しても、結果が思う通りにならない事がある・・・ それは、主が下した答えだったのかな・・ 私は人に指を指されるような事をせず、考えもせず、自分は純粋だと思っている。でもキリスト教の神さまは、魂の値打ちを測るって・・魂の値打ちって何? 私には分からないな、主の価値観💦」
良く分からない「魂の値打ち」という言葉。
でも何となく、公平な感じがしました。
人は皆、基本的に良心に従って正しく生きようとします。しかし、その正しさの基準は「自分の良心」です。
人によって基準が違います。スッゴク自分に厳しい人もいれば、「これぐらい大丈夫。みんな同じ・・」と考える人もいます。
主が基準としておられる「魂の値打ち」、それがどの様なものかは分からないけれど、多分、自分が死んで、主の前に立った時、主の「魂の値打ち」の前では、誰一人として弁明する余地がないように思います。
子どもが小さい時、この様に言われた覚えがあります。
「前は良いって言ったのに・・」
私たちの判断は、その日その日の置かれた立場や、気分、状況によって変わってしまうのです。
また歳を重ねる事によって、考えも変わってきます。
影響を受けた人や物事によっても、私たちの基準は変化していくのです。
時々、この様な話を聞きます。
教会で奥さんだけがクリスチャンで、ご主人は教会に来られない家族がおられます。
「うちの主人は、何度話しても正しく生きてくれないのよ・・」
これは・・・仕方がない事だと思います。
私たちクリスチャンであっても、意見が合わない時があります。判断が違う時があります。トラブルになる時があります。
しかし、私たちは、キリストを基準としよう、聖書を基準として判断しようという心があります。
キリストが心に居ない方には、より頼む基準がなく、また正しく生きる意味も違うと思います。
人に迷惑をかけず、法に触れるような事をせず・・生きればOKだと思っている方が殆どではないでしょうか?
キリストを知らない方が、自分の魂の値打ちを考えることは、まずないと思います。
ですから、世の中には人の数だけ正しさがあるのです。互いに自分が正しいと思っているから戦争が起こるのです・・・
人と主は、かけ離れ過ぎているのです。
自分を基準として生きる事は、不安定であり、不確実であり、危険性があります。