クリスチャンの人生とは【へブル12:4】

2022年

 あなたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

へブル12:4

クリスチャンの人生・・・ と、聞いてどんな人生を想像しますか?

主の平安に包まれて、心穏やかに過ごせる人生ですか?

誰もが、人生に問題が生じて欲しいとは願っていません。人生に大きな問題なく、HAPPYな日々を過ごしたいと願っています。

問題に振り回されたり、人に心かき乱されたり、我慢を強いられたり・・・したくないと思っています。

もし、このような問題がない人生があったとしたら、その人の人生は幸せなのでしょうか?

「あー-私はクリスチャンとなって、問題なく、穏やかな日々の中で人生を過ごせた!」と言って世を去る日を迎えれる人は、幸せなのでしょうか? 本当にそれは幸せな人生だったのでしょうか?

主は私たちにそのような人生を望まれているのでしょうか?

「クリスチャンになったので、問題から解放され、日々心騒がす事なく過ごせてる。」と言う方がいらっしゃったら、その信仰生活は多分問題です。

私たちクリスチャンの人生も、主を知らない人の人生も、必ず問題があります。

しかし違いもあります。 クリスチャンの問題は、主が共に解決へと導いて下さるのです。しかし、主を知らない人の問題は、自分で問題を抱え込み、問題を背負って解決へと振り回されてしまうのです。

私たちクリスチャンの人生は「戦い」が付き物なのです。

クリスチャンになって、より良い人生を歩みたい。主の御心に叶う人生を歩みたい!!と強く願うものを、サタンは邪魔をします。

クリスチャンとなって、奉仕に目覚めたら、しばらくしてどうでしょうか? 疲れも感じるようになるでしょうし、人と比べ自分が損をしている様に感じたりもします。時には教会から離れたく感じたりもするのです。 初めは喜びに満たされ、少しでも主に奉仕したいという一心で始めたのに・・・サタンは違う所に私たちの目を向けさせるのです。

私たちが主を愛すれば愛するほど、どうかして、私たちを主から離そうと躍起になるのです。

私たちは、そういった力が働くという事を、知っておく必要があります。

罪や誘惑、怠けさせようとする力などと、戦う必要があるのです。

しかし、「何となくクリスチャン」の人には、サタンは攻撃をあまりしません。

攻撃しなくても、自分から怠けてくれるからです。心に感動がなく、何となく日曜日になると教会へ通うクリスチャン・・・ 「攻撃されなくて良かった」と思わないでください。サタンの目に留まらない、サタンが気にならない信仰だという事です・・・

ですから、「戦いや葛藤がない人生」はクリスチャンとして、幸せな人生だと言えない気がします。

サタンは、私たちが目的を持って生きる事を嫌がります。

今日の御言葉を見ると、罪との戦いがあると書かれています。その罪の戦いは私たちの想像を超えた過酷なものである。とも書かれています。

主の御心を成し遂げようとする時に、必ず戦いがあるのです。戦いが大きいほど、それはサタンが嫌がっているという事です。

サタンは、私たちが神に用いられるのが恐れています。

生ぬるく、ただ座ってるだけのクリスチャンが好きです。

私たちの今の信仰生活はどうですか?

葛藤がある信仰生活でしょうか? 戦いのある信仰生活でしょうか?

正しい信仰生活には「戦いがある」としながらも、主は平安があるように。とも言われています。

どういう意味でしょうか?

マルコの福音書4:37-38です。

すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか。」

つまりこのような状態を示されているのです。

自分の周りは、死を感じるようなピンチの中に、自分が存在していたとしても、心は平安な状態。

どの様な問題があなたに迫って来て、あなたを倒そうとしようが、主である私が共に居るので、何の心配もない。

「自分の状況に影響を受けず、心を平安に持ちなさい」という事を望まれているのです。

自分の信仰生活はどうでしょうか?

問題や悩み、誘惑がある信仰生活を過ごせていますか?

死は、どの人にも必ず訪れます。死を直面した時に、パウロの様に「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。(Ⅱテモテ4:7 )」と言えるでしょうか。

今日一日、自分の信仰生活を振り返ってみましょう!

主に喜ばれる生き方が出来ているのだろうか・・・

今日も、主と共に歩む一日をお選びください!

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