主はどこを見られるのか【ルカ16:10】

2022年

小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

ルカ16:10

クリスチャンにとっては、よく聞く御言葉です。

「小さい事」って何でしょう? 人それぞれ違うかもしれませんが・・・自分にとって「小さい事」ってなんだろう・・と考えさせられました。

私はこの御言葉を聞く度に、「ナアマン将軍」の話を思い出します。

軍司令官のナアマンは、重い皮膚病を患っており、癒してもらう為に、預言者エリシャの所に行きました。

エリシャは、ナアマン将軍に会いもせず、自分の僕に「ヨルダン川で七度身を洗えば、体は元に戻り清くなる」と伝えさせました。

当時、皮膚病は不治の病・・・ナアマン将軍はその言葉を聞いて怒ったのです。

「我がアラムの王は、私の皮膚病を治すために多くの金、銀、着物をイスラエルの王に贈ったのだ。なぜあの預言者が自ら出て来て、私の前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部に手をかざし、皮膚病を癒してくれないのか」と・・・

ナアマン将軍の気持ちが凄く分かります。自分の王が自分の病を癒すためにと、沢山の贈り物を持たせて来たのに・・という事は、自分は地位ある者であり、軽くあしらわれる人物ではないのだ!という思い。

不治の病を大きな奇跡を持って、劇的な癒しを受けると思っていたのです。

それなのに・・挨拶にも来ず、自分の国の川より劣るヨルダン川で体を七回洗うだけ??

バカにされたように感じたのではないでしょうか。

しかしナアマン将軍は自分の部下に諭され、ヨルダン川へ向かったのです。

この部下・・・凄いですよね! 自分の将軍を諭す事が出来るなんて!

多分、この部下はナアマン将軍を尊敬していたんのではないか・・?と思います。「絶対に癒されて欲しい!」という思いから、この様な事を、自分の将軍に進言ではないでしょうか。日頃からナアマン将軍の人格が良かったのではないかと感じます。

私は、ナアマン将軍は、普段は小さい事にも気を配れる人物だったのではないかと思います。そうでなければ、部下が命をかけて将軍に進言することはしないと思います。部下が、尊敬し絶対に癒されて欲しい!と願うのは、普段からのナアマン将軍を知っているからではないでしょうか。

しかし、部下が言う通り、もしエリシャが難しい事を言ったとしたら、問題なくナアマン将軍は従ってたと思います。しかし、この時、ナアマン将軍は、簡単な事、小さい事は、軽く感じてしまったのです。

「簡単なこと」「小さなこと」「些細なこと」を大切に思えるかどうかは、時によっては人それぞれの価値観や、その時の気分、様々な主観的な要素に左右されることも多いではないかと思います。

人は時には、ナアマン将軍ように「小さい」と思うことを重要視できず、または無視し、価値がないと判断したり、「大きい」と思うことばかりに目を向けてしまう傾向があると思います。

本当は、大きなことは、小さなことの積み重ねだと忘れてしまうのです。

主はナアマン将軍のどこを見られたのでしょうか?

普段から誠実で勇士である姿を認め、癒しを与えられたのではないです。

ナアマン将軍が癒されたのは、エリシャを通して語られた小さなことに対して「謙遜さ」があったからだと思います。

この小さなことに従うという事は、そんなに簡単ではないと思います。

ナアマン将軍がこの小さなことに従うには、部下の前で(多分)裸になり自分の弱さを部下に見られるのです。

一見、信じられない、簡単すぎる方法を将軍が信じて従う姿、決して力強い勇士ではない姿を、部下は見るのです。そこまでして癒しを得ようとする将軍の姿を部下が見るのです。

周りの人が、「くだらない」「価値がない」「ばからしい」と見えるものであっても、主に従う従順さを持っていたのです。

自分が今、従うべき小さなこと。大切にしなければならな些細なこと。

今日は、自分に与えられているものは何か、考えたいと思います。

多分、私には「くだらない」「価値がない」「ばからしい」と無意識に判断して、従っていない事が沢山あるような気がします・・・💦

「小さなことに忠実」は、案外簡単ではないように思います。

今日も、主の恵みを感じる一日となりますように!!

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