賛美の中だけが私を解放してくれる【ヨハネ8:32】

2024年

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

ヨハネ8:32

昨日の、私の怒り過ぎの話の続きです。

私は、自分の中のちょっとした不満を育て、

怒り過ぎ!と言われるまでに、自分の中で怒りを成長させていました。

その後、

そうだよな~ 自分が当時の記憶を何度も反復させることによって

怒りを成長させているなんて… 怖いな…

と言う思いと、

まだ自分の中で、じゃ、これはどう処理すれば良かったんだろう。

と言う疑問。

見て見ぬフリをするべきだったのか。

でももし、ハンバーガ―屋さんの店員さんが、

他人ではなく自分の子どもだったら…

絶対に教えたい…

お客さんに対する基本的な態度。

あの女性は、いつ自分の間違いに気付くんだろう…

誰も注意しなければ、気付かないかもしれない…

これは、教えてあげた方が良いのでは…?という

変な親切心、変な老婆心ともいえる考えが出てくるのです。

そして、それは「彼女の為」という

自分を正当化した、自分なりに正しい理由として考え始めるのです。

…私たちはいつも「自分なりの正しいと思う理由」を持っています。

そして、それを互いに主張するのです。

自分の中に、そのような「自分に都合の良い理由」が芽生えている事に、

笑えて来ました。

それと同時に1つの場面を思い出しました。

私が20代後半の時、韓国に留学に行っていた時です。

当時、日本人留学生は少なく、

町を歩いていても、バスに乗っても、お店に入っても、

何をしても私が日本人だと分かると、

差別というか、嫌な思いにさせられていました。

私はいつも心がズタズタでした。

SNSがなく、ガラケーの発売が始まった時代。

誰にも相談出来なかったのです。(周りに日本人のクリスチャンがいないから)

おまけに私は韓国語が物凄く出来る訳でもなく、

片言の時代。

言われるがままに、言い返す事も出来ない語学力。

心の中で、私に差別的な事を言う人に対して、

何度「この人は本当にクリスチャンなんだろうか…」と疑問に思いました。

私の悲しみや怒りの吐け先は、主だけでした。

主に沢山、文句を言いました。

そしてある日、疲れ切った心で、賛美礼拝を捧げに行きました。

韓国はクリスチャンが多く、賛美が豊かです。

この賛美に包まれ、私はいつも癒しを得ていたのです。

そして、この日の賛美礼拝では、心が傷付きすぎて、

賛美をしたいとも思わなかったのです。

礼拝中、賛美をする人たちを眺めていました。

沢山の人が集まる賛美礼拝の中に、

私にボロカスに文句を言った事がある人たちの姿が

何名か、私の目に入ってきました。

「え…あの人だ…」と思った瞬間。

その人たちも、手をあげて賛美しているのです。

私はその姿が理不尽に感じました。

「あなたのその手は清いのか?」と聞きたくなったのです。

人にあれ程、攻撃し、差別をする人が、

どうして主の前で、清いかのように手をあげて

賛美が出来るんだろう…と思うと、

もっともっと悲しくなり、沢山の涙が溢れたのです。

私にとって、韓国生活においてこの賛美礼拝が

唯一、癒しを得れる場所でした。

しかし、今、目の前に私の心の傷の原因が数名いるのです。

そして、その方たちの賛美する姿に、

心底、嫌気がさし、腹が立ったのです。

そして、その方たちも他の人同様、

泣きながら賛美をしていました。

私はその姿を見て、鼻で笑ったのです。

私にとっては、主の前で泣くのは私なのです。

彼、彼女たちは、いじめた側。

何を泣く必要があるのでしょうか。

主に泣いて助けを求めるのではなく、

悔い改めるべきだろう…と思ったのです。

彼女たちの賛美をする姿に、私のストレスは高まるばかり…

心の中で沢山、主に文句を言いながら、

彼女たちの姿を見ていました。

長い時間をかけて、自分の心が変えられていったのです。

彼女たちには、彼女たちの理由があり、正当性がある。

それが合っているかどうかは別として、

間違った価値観、間違った思考、間違ったものの見方などは、

私たちから自由を奪い、私たちを苦しめるもの…

自分の視点、自分の価値観、自分の判断などを

主張しない人、手放した人だけが、

本当の自由を手に入れる事ができる…

あの人たちは、1対数人で、私を攻撃してしまっても

それが悪い事、相手に対しての負担感など、

考える事は出来ず、自分たちなりの価値観のもとにした行動。

ということは、あの人たちは、

私よりもっと苦しい生き方をしているかも…

私たちは、自我や自欲から解放されればされる程、

自由を手に入れる事ができる…

これは私の勝手な見方かもしれないけれど…

私は、あの人たちのように人を追い詰めるまで攻める事はしない…

しかし、彼女たちはそれをしてしまう。

自分達の正当性を持って。

もしかしたら「正しい歴史を教えてあげる」という理由を持っているかもしれない。

清い手をあげて主に賛美するのではなく、

清く存在する事が出来ないから、

主を求め主に私の心と霊に触れてもらいたい…

助けて欲しい…という叫び。

私も、ズタズタに傷ついた心を

賛美の中で癒されるのは、

賛美の中では、私の価値観、私の判断、私の善悪などから

解放されるから…

賛美の中では、それらを手放す事が出来るから…

だから私は、賛美の中だけが、

私を自由にしてくれるものだったのです。

私は、自分の善悪基準、自分の価値観、自分の理由から

解放され、主の自由を得たい…

主の愛で満たされたい…

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~

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