私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。ローマ8:38-39
今、幸せを感じていますか?
もしくは、辛い思い一杯で、押し潰されそうになっているでしょうか?
主は、私たちが幸せに生きる事を望まれています。
しかし、私たちは主を信じているにも関わらず、生きている事が辛く感じる事が多いですよね。
どうしてでしょうか。
幸せだと感じる時は、どの様な時でしょうか?
仕事が上手くいっている時?
病が癒された時、
生活が豊かになった時、
希望の学校に進学出来た時、
欲しかった物を手に入れた時、
…良い事があった時に、私たちは心が満たされ、どことなく悠々自適さを満喫でき、
幸せだな~と感じるのではないでしょうか。
そして、どことなく生きる事に積極的になったりするのです。
反対に、生きる事が辛く感じるのは、どの様な時でしょうか。
仕事で失敗した時、
病が発覚した時、
生活が苦しくなった時、
希望の学校に出来なかった時、
願った通りの結果を得れない時、
このような事が、もし重なったら、
私たちは一気に、生きる事が辛くなり、苦しくなるのです。
…つまり、自分の願い通りに道が開いている時は、幸せを感じ、
願い通りに歩めない時は、辛く感じるのです。
という事は、
今、幸せを感じていたとしても、状況が一変したら、苦しい人生へとなってしまうという事です。
自分の置かれた状況により、自分が幸せにもなり、
辛い人生にもなるという事です。
つまりそれは、自分の感じている幸せが「条件的」だという事です。
条件的だという事は、条件が揃わないと、幸せではなくなるという事です。
今、自分が「幸せだな~」と感じているのであれば、
それはどうして幸せだと感じるのか考えてみる必要があります。
条件的な幸せだとすれば、
それは条件が変われば、幸せは直ぐに去ってしまうのです。
…主は私たちの幸せを願っているはずなのに…
主が私たちに願う幸せとは何でしょうか?
自分が置かれた環境に、左右される幸せは、主が望まれている幸せとは違うと思います。
という事は、
主が私たちの望まれている幸せの土台は「条件的な幸せ」ではないという事です。
主が私たちに望まれている幸せは、
私たちがどの様な環境、状況であっても幸せを感じる事を望まれているのです。
だから、私たちの幸せの土台が「条件的」であってはいけないのです。
私たちは、主の福音により幸せを得る。
主が私たちの神であるという事に幸せを得る。
主が私たちを愛して下さり、共に居るという約束をして下さっている事に幸せを得る。
主の愛は、何を持っても私たちを神から引き離す事は出来ないのです。
主の愛は、決してあなたを離れず、また、あなたを捨てないと約束されているのです。
世の終わりまで共に居て下さると約束して下さる主…
無条件に私たちを愛して下さる神さま。
主は、決して変わる事がない愛で私たちを満たし、
主の愛で包まれている事で、
私たちに幸せを感じて欲しいのです。
主の愛が、私たちの幸せの土台であるべきなのです。
私たちは自分の幸せの土台が何なのか、
自分の心を探る必要があるように思いました…
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)