イエスさまはジェントルマン【ルカ5:1-11】

2024年

群集がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、
岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群集を教えられた。
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

ルカ5:1-11

今日、ルカの福音書5章を読みました。

何度も読んだ箇所です。

改めて、じっくり読んで気付いた事を記録したいと思います。

シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネがイエスさまの弟子となる話です。

この4人は、この場面で初めてイエスさまと知り合い、弟子になったのではなく…

4人も主と出会っており、主が偉大な方であるという認識した状態で、

今回の出来事があったのです。

しかし…5章を読むと、

「群集がイエスに押し迫るようにして神の言葉を聞いていた」時、

この4人は近くに居ながらも、自分の仕事道具である漁の網を洗っていたのです。

特に、シモンの場合、4章の後半を読むとイエスさまはシモンの家に行き、シモンの姑を癒しています。

シモンは少し前に、目の前でイエスさまの癒しの奇跡を目にしていたのです…

しかし、イエスさまの話を聞こうとはせず、網を洗っていたのです。

どうして「わーイエスさまだ!」と主の話に耳を傾けようとしなかったんだろう…

もしかしたら、夜通し漁に出て1匹も釣れない状態に

嫌気がさしていたのかもしれないし、疲れ切っていたのかもしれない…

でも私がイエスさまだったら、そんなペテロに残念な思いを持ってしまうと思います。

「ペテロ…私はここにいるんだよ」と言いたくなる…

しかしそんなペテロに対して主は、

陸から少し漕ぎ出すように「頼まれた」のです。

ペテロに叱責や嫌味を言う訳でもなく「お願い」をしたのです。

必然的に、ペテロは仕事を離れ、主と共に舟に乗り、主の話を聞く事になります。

そして話を終えられた主はシモンに

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われ

シモンは、「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもお言葉どおり、網をおろしてみましょう」と従ったのです。

私は、この言葉に、シモンは良く従えたな…と思います。

一旦、シモンたちは漁を終えているのです。

漁を終えた後、網を片付けないといけません。

網に不必要に引っかかっているものを、1つずつ取り除き、網の破れをチェックし修繕しないといけないのです。

そして、そのような後始末を終えた後です。

それをもう一度、何時間もトライして、何の成果もなかった所にもう一度、網を下ろすのです。

疲れ切っている人にとっては、

この時、主に従うことは簡単なことではないような気がします。

シモンが主に従うと、網が破れそうなぐらいの大漁だったのです。

別の船の仲間に助けを求めたのです。

魚の量は、2艘共に沈みそうなぐらいだったのです。

ここまでで感じる事は、

今いる場所から示された場所に動くという事が大切。

「深みに漕ぎだして」と言われています。

今いる場所から、主が示される所へと、一歩動く必要があるのです。

これは、実際的に主に、場所を移れと言われる事もあります。

今の信仰より「もっと深みに漕ぎだす」という意味も取れると思います。

教会やネットでメッセージを聞き、恵まれ、慰められ、勇気を得る事は多いです。

しかし、そこで終わらないで…という意味の様な気がします。

「自分の中だけ」で恵まれないで、

主の恵みを自分だけで「消化」しないで、

受けた恵みを「外に流す」という

「行動を起こしなさい」と示されているように感じます。

そして伝道は一人では出来ない。

仲間が必要だという事。

主が与えて下さるものは「まあまあ大漁」ではなく、

2艘が一杯になる位の魚の量なのです。

2艘が溢れる程…ではなく、

2艘に入るだけ。なのです。

主に示された通り、主に従う人生を歩めば…

少しの恵みではなく、まあまあ多くでもなく、

自分が受け取れる最大分、貰うことが出来るのです。

これを経験したシモンは、

イエスの足もとにひれ伏して、

「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言ったのです。

「わーイエスさまって凄い!」という感動ではなく、

私から離れて下さいと言ったのです。

どうしてでしょうか。

シモンはこの経験を通し、

主の偉大さを知ったのです。

シモンが一番実感できる「漁という方法」で、主が教えられたのです。

そしてそれと同時に、自分の罪深さを実感したのです。

自分の罪深さが分かる分だけ、主の偉大さが分かるのです。

これは比例するようです。

自分の罪深さに気付いたシモンは、自分が気軽に話をするそのような存在ではないと思ったのです。

私の想像ですが、

今、私がイエスさまに出会ったら…

「わーーー🥰 イエスさま‼  会いたかった‼」と言ってしまいそうな気がします。

という事は、

私はまだまだイエスさまの偉大さ、

自分の罪深さを、心底実感出来ていないんだと思います…💦

シモンはイエスさまにお願いされる前までは、

イエスさまが偉大であると知りながら、イエスさまの話を聞こうとはしませんでした。

私たちにもこのような時があると思います。

「今はちょっと一人になりたい…」

「今はちょっといらない…」

「申し訳ないけど、今は疲れ切っている…」

そのような時、主はシモンに叱責をされず、

シモンに寄り添うように話しかけられているのです。

シモンのイライラや、疲れ切った心をご存知であられ、理解されたのです。

私たちの主は… 本当に素晴らしい…

ジェントルマンです🥰

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

タイトルとURLをコピーしました