イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。
群集が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。
ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、
彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。
彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。
彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。
イエスが彼に、「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、
彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。ルカ18:35-43
電車に乗った時、
隣に若いOLらしき2人が座っていました。
そして「来月の誕生日、何を貰ったら良いと思う?」と話していました。
私は「そっかーこの方、来月誕生日で、彼氏にプレゼントは何が良いのか聞かれてるのかな~」と思っていました。
その話を聞いている友達が「何にするか迷ってるの? それとも全く考えているものがないの?」
そして、あーでもない、こうーでもないという会話を楽しそうにしていました。
私は、なんてこの2人可愛いんだろう…
多分、今って凄く楽しい年頃なんだろうな~と思っていました。
そしてふと、自分なら何を望むだろう…と考えました。
もちろん送り主は神さまです。
もし主が「あなたは何が欲しい?」と言われたとしたら…
私は何を望むだろう…
まず頭に浮かぶのは、今目の前にある問題の解決… え…でもどの問題?
いやいや…主が ″何を望むのか?” という問いに対して、私の問題の解決を望む?
ソロモンのように「知恵」を望む?
知恵も良いけれど、人間的には、目の前の問題…
と考えている時に「盲目のバルテマイ」の話を思い出しました。
道端でバルテマイが物乞いをしていた時、イエスさまが通られたのです。
そしてバルテマイは「ダビデの子よ。私を憐れんで下さい!」と言い続けたのです。
イエスさまに「何をして欲しいのか」と聞かれ
「目が見えるようになりたい」と答えました。
もしも、そこを通りかかったのがイエスさまではなく、私だったら…
バルテマイは私に何を求めたでしょうか。
多分、食べ物かお金だと思います。
「今日の一食」を切に求めたはずです。
私に対して「目が見えるようにして欲しい」とは望まないのです。
バルテマイは、今、目の前を通っている人が、うわさに聞いたダビデの子だと分かっていたのです。
だから、バルテマイは周りの人に黙らせようと邪魔をされても、
諦めずに声を出し「叫び立てた」と記録されています。
主との出会いを逃したくなかったのです。
絶対の絶対に、癒しを受けたかったのです。
そしてイエスさまに「何をして欲しいのか」と聞かれた時、
「一食」を求めず、自分の中にある「根本的な問題」を求めたのです。
もし、この時にバルテマイがイエスさまに一食を求めたら…
バルテマイにとってイエスさまは単なる人に過ぎないという事になります。
イエスさまは、目を癒す事もできるお方だと信じたから、
普通で考えたら無理難題である「目の癒し」という普通では考えられない事を求めたのです。
…という事は、
私が今、主に「何をして欲しいのか?」と聞かれたら…
私の答えが、私が考える「主の大きさ」になるという事です。
そう考えたら、私は日頃、なんて小さなお願いを主に願っているんだろう…
目先の問題に心を奪われ、
「これさえ解決すれば、私はもっと幸せを感じるのに」
「もっと生活が満たされるのに…」
と、どれだけ頭で考えただろう…
主は偉大な方なのに。
私が主を小さくしている…
目の癒しを願った主は、バルテマイに「あなたの信仰があなたを直した」と言われました。
バルテマイが持っている信仰…
「この方なら私の目を癒してくれる」という信仰が、バルテマイの目を癒したのです。
自分の信仰により受けるものが違うんだ…
主は、私が大きいものを求めれば大きいものを下さり、
小さいものを求めれば、それに見合うものを下さる…
私は主に何を求めよう…
みなさんは、主に何を求めますか?
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)