主が「良い」と重視されること【Ⅱ歴代誌34:14-21】

2023年

彼らが、主の宮に携え入れられた金を取り出していたとき、祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された主の律法の書を発見した。

そのときすぐ、ヒルキヤは書記シャファンに対してこう言った。「私は主の宮で律法の書を見つけました。」ヒルキヤがその書物をシャファンに渡すと、

シャファンは、その書物を王のもとに携えて行き、さらに王に報告して言った。「しもべにゆだねられたことは、すべてやらせております。

彼らは主の宮にあった金の箱からあけて、これを監督者たちの手に工事をしている者たちの手に渡しました。」

ついで、書記シャファンは王に告げて、言った。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」そして、シャファンは王の前でそれを朗読した。

王は律法のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。

王はヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカの子アブドン、書記シャファン、王の家来アサヤに命じて言った。

「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、主のことばを守らず、すべてこの書にしるされているとおりに行わなかったため、私たちの上に注がれた主の憤りは激しいから。」

Ⅱ歴代誌34:14-21

12月に入ってから、私は何度か実家に行き掃除をしました。

両親は天に召されているので、誰も住んでいないのです。

そして懐かしいものを見つけました。

私が韓国に留学に行っていた時に、両親に宛てて書いた手紙が出て来たのです。

「あーこんな事、書いたな…(笑)」と思いつつ、自分が書いた手紙を何通も読みました。

そして、母親が私に出しそびれた手紙、父親が私に絵葉書を送ってくれていたのですが、絵を失敗し書き損じたハガキを見つけたのです。

それを見ながら、これを両親が書いたのはもう25年程前…

色々な思いが湧き起こりました。

両親への感謝な思いと、私は娘としてもっとこうしてあげれば良かったというような思い。

今は私も親となって、当時は気付かない両親の思いが、今は分かるような気がします。

色々な感情が湧き出て、私なりに家族には色々な問題がありましたが、

今、この手紙を見ながら主に感謝しかなく、また主へ悔い改めしかありませんでした。

今となって分かること。

私が感じていた感情(怒りとか悲しみなど)が、本当は見当違いな感情だったのではないか…とも感じました。

私は主の計画を知らず、不平不満だけを口にしていたのではないか…

本当は一つ一つに意味がある出来事であり、私は目先の感情に心を奪われ、悲しい思いに浸っていたのではないか。

主に本当の意味を求めず、自分の感情だけで祈っていたんだな…と感じる時間を過ごしました。

実家からの帰り道、「あーー今私が感じる感情に近いユダの王…居てた… 誰だっけ」と思い、

家で探しました。

南ユダの16代王 「ヨシヤ王」です。

今日の御言葉は、

ヨシヤ王という王様の時代に、エルサレムの神殿を修理していた頃の箇所です。

ダビデ王、ソロモン王の時代に、エルサレム神殿には大切な箱があり聖書などが納められていたのです。

しかしその箱は時代の流れと共に忘れられ、ヨシヤ王が神殿の修理をした時に発見されたのです。

ヨシヤ王は大変驚き、自分の衣を裂いて悔い改めたのです。

聖書が出て来た驚きではなく、聖書の言葉に、内容に心を打たれたのです。

人間の罪に対する指摘の言葉。

ヨシヤ王は涙を流し、聖書の言葉を受け止め悔い改めをしたのです。

ヨシヤ王は、イスラエルの数少ない「良い王」として記録されています。

ヨシヤ王が行って来た立派な業績が認められ、主は「良い王」とされたのではなく、

主の御言葉に心を打たれた人として、主の目に「良い王」とされたのです。

大切なのは、「今」なのです。

「今」、主の御言葉に心を打たれ感謝し、悔い改める事が出来るか。

過去に主に従った、奉仕を沢山した、伝道した…

これも素晴らしい事ですが、

多分、主は「今」どうなのかを重視されるように思います。

私たちの思いや目に、立派な行動であっても、主の前では不完全なはず。

過去に、パウロのようにキリスト者を迫害するような人生だったとしても、

「今」、主に出会い主の御言葉を心に刻めるか、主の御言葉にひれ伏す事が出来るか。

どれほど、御言葉を自分の物として受け取る事か、

主の御心を受け取るとり、応える事が出来るかどうか…

私たちは日々忙しく過ごしています。

もしかしたら、それは私たちと主を遠ざける罠かもしれません。

私たちの時間と心を奪い、主の言葉に耳も心も向けれないようにしているのかも…

年末年始で一層忙しく過ごすと思いますが、

この一年を振り返り、主に感謝し悔い改める機会でもあります。

また来年に向かい主との時間を考える機会ともなります。

今日は、忙しい中でも心は忙しく過ごさないようにしたいと思います。

主と共に過ごし、「今日」主と出会う事が出来ますように!!

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