「神の摂理」とは【エステル4:13-14】

2023年

モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。

もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」

エステル4:13-14

私は聖書の中で「エステル記」が好きです。

もちろん、他にも凄く好きな書もあります。その中の1つがエステル記。

エステル記は、不思議な書です。

エステルという紀元前5世紀頃のイスラエルの信仰者の話です。

モルデカイの養子であったエステルは、容姿も心も美しいこともあり、ペルシャ王の王妃に選ばれました。

ある時、王の部下であり国で二番目に偉いハマンという宰相の策略により、イスラエル人の絶滅命令が下りました。

この状況を見て、養父であるモルデカイはエステルに助言をするのです。

それが今日の御言葉です。

今、この危機を救う事が出来るのは、エステル、お前しかいないんだと…

王の近くに居る事が出来る王妃しか、この危機を救えないと。

しかし、王妃であっても、王に呼ばれもせずに王に近付く事は誰であれ、死刑にされる可能性があるのです。

命をかけた危険を伴う使命にエステルは、ためらいを感じながらも、モルデカイの言葉を受けて、「死ぬ覚悟で王のもとに行きます」と決断したのです。

モルデカイは「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」

モルデカイは、エステルが今こうして王妃として立たされているということは、偶然の出来事ではなく、神のご計画によるものであり、「神の摂理」だと解き明かしたのです。

エステルは王に「私と私の民族ユダヤ人の命をお救いください」と言い、

王がハマンの策略を知り、ユダヤ人を滅ぼすという勅書は取り消され、ハマンは身を亡ぼす事になったのです。

…エステルは実際に存在した人物ですが、

私は、何となくエステル記は「大人の絵本」のような感じを受けます。

絵本と言うと空想的な話…という意味ではなく、

子どもの絵本も、絵本のストーリーを通して、作者が意図をもって書かれたストーリーに、学びや悟りが含まれていると思います。

小さな子どもが絵本のストーリーから、友達は大切にしないといけない。とか、

愛するとはどういうことか。喧嘩をしたらごめんなさいと言う。など学ぶ事が多いと思います。

ストーリーから自然と「こういう風に生きていかないと!」と思える悟りが含まれています。

私はエステル記が、その様に感じるのです。

エステル記には「神」という単語は一度も出てきません。

しかし、エステル記を読むと、神がこの世に存在され「神の摂理」が存在すると感じ事が出来る書だと思います。

「神の摂理」とは説明しにくい難しい言葉です。

「神の摂理」と聞くと、何となく神の計画通りに事が行われるよう、私たちの意志とは反し、操り人形のように私たちを操っているような想像をしてしまいがちです💦

「摂理」という言葉を調べてみると。

  • 神が人々の利益を考えて、この世のことを配慮し、導き治めているという考えに立っての語(とくにキリスト教で)。
  • 自然界を支配している理法。
  • ひとに代わって事を治め処理すること。代理となること。
  • 支配すること。

今の私が「神の摂理」について思う部分だけを記録するとすれば、

ヨセフの生涯が分かりやすいと思います。

兄たちに妬まれエジプトの奴隷として売られ、何度も苦難の中でもヨセフの信仰は守られた。

そしてエジプトの総理大臣となって、食料を買い求めて来た兄たちと再会をするのです。

ヨセフは、

「だから今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に神なのです(創45:8)」

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました(創50:20)」

…「神さまどうしてですか??」と叫びたくなるようなヨセフのような人生であったとしても、主が良き方に導いて下さるのです。

「神の摂理」とは、

自分の人生に悪の力が働いたとしても、神は私たちの人生の出来事に意味を持たせて下さるのです。

また「神の摂理」とは、

私たち自身には、思いもよらない計画、考えもつかない導きが、神さまによって私たちには見えない水面下で着々と進められている。という事だと思います。

エステルが、自分には出来ない ‟命をかけた決断” をする力が与えられたように、

主が私たちの中で働かれる力だと思います。

エステルが自分の力や勇気から出たものではない‟決断” が、

エステルとその民たちを、前へと力強く進めて下さるもの。だと思います。

「神の摂理」は、「神の御手の働き」だと思います。

エステル記は、「神」という言葉が一度も出てこないのに、

エステル記を読むと、エステルの話の中に、圧倒的な神さまの働きを感じます。

主は存在され、「神の摂理」を持って今も働かれている。と感じるのです。

聖書には「神の摂理」という言葉が出てきません。

しかしエステル記やヨセフの話を読むと、神は摂理をもって世を治められている。と感じるのです。

私たちは、神の摂理により導かれ守られ生きているのです。

今日も主に感謝し、今も生きておられ働かれる主と共に時間をお過ごしください!!

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