主からの合図【使徒16:25-28】

2022年

真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

目を覚ました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。

そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。

使徒の働き16:25-28

昨日、パウロの第2回宣教旅行(使徒15:36-18:22)をもう一度読みました。

主の導きには合図があるという事。

「どのように祈るか」「何を求めて祈るか」によって、自分の目の前に起きる出来事の解釈が大きく変わって来るんだな・・と改めて感じました。

つまり、どのように祈っているかによって、自分の選択が変わり、行動が変わるのです。

パウロは異邦人に対して宣教しようと思い、小アジアへ向かいました。

しかし、何度もアジアへ行こうとしましたが、道は開かれなかったのです。アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたのです。

主は、パウロとシラスをヨーロッパの方へと方向を変えさせました。

そして、ヨーロッパに向かう道中、ピリピに着いた時、パウロとシラスはピリピでも福音を伝え、奇跡を行いました。

しかしパウロとシラスは、主に従い道を変更したのに、長官たちに捕らえられムチ打ちにされた上、投獄されたのです。

パウロたちは、ムチ打たれ傷ついた身体でありながら、監獄で「主に祈りつつ賛美していた」のです。

この時、パウロとシラスは何と祈っていたのでしょうか。

普通に考えれば、パウロたちは伝道を目的とした道中で起きたこと。しかも、主に従い行き先を方向転換した矢先に、理不尽にも捕らえられムチ打ちにされ、投獄されれば、伝道を阻止しようとする悪の攻撃・働きがあると考えるはずです。

ですから「監獄からの解放」を願うと思います。自由な身とになり、また伝道への道を目指したいと思うのではないでしょうか。

突然大地震が起きたのです。そして獄舎の土台が揺れ動き、扉が全て開き、囚人の鎖が外れたのです。

しかし、パウロは逃げる機会があったにも関わらず、逃げずに留まったのです。

どうしてでしょうか?

パウロが監獄で祈っていた祈りが、「解放」であれば、この突然起こった大地震は、主が祈りを聞いて下さった!!と奇跡がなされ、救いの道が開かれたと解釈し監獄から出たはずです。

扉が開け、鎖が解き放たれても、逃げなかったのは、パウロが「自分たちの解放」を祈っていなかったからです。

心の底に、パウロとシラスが、監獄に対して少しでも不満や不安、逃げ出したい、避けて通りたい・・と考えていたら、目の前の開いた扉に「心が引き寄せらえる」と思います。

目の前に奇跡的に自由が開かれたのに、パウロにとってその奇跡は、手にするものではないと考えたのです。

パウロたちは、小アジアに向かおうとしていました。しかし何度もチャレンジしても道が塞がれたのです。そして進路を変えたら、投獄されたのです。

私なら、不運だと感じると思います。

パウロにとって、ムチ打ちに合い投獄された出来事は、偶然でもなく、不運だったわけでもなく、困難や絶望だとは考えていなかったのです。

監獄に入れられた事はマイナス的な要因ではなかったのです。

パウロたちは、置かれた場所に心を止めず、主に対して期待感と感謝の思いを持っていたのです。

「この場に主が導かれた」「この場で自分がするべき事がある」と分かっていたのです。

パウロは主がこの場に、自分がしなければならないビジョンを与えられていると知っていたのです。

ですから、一刻も早く監獄からの脱出をするという考えを持っていなかったのです。

主が意味を持って計画された場所に、自分が今存在していると知っていたのです。

これは私には難しいです。

目の前に奇跡的に自由が開かれたら、ムチ打ちされるような場所を捨てて、自由を主の御心だと感じ、感謝しながらその場から走って逃げてしまいそうです。

自分の祈りが何か、主が与えて下さった使命をしっかりと握りしめ、迷ってはいけないんだと思います。迷ったら揺らぐので。

他の囚人たちも聞き入るほどの賛美と祈り。

何か分からないけれど、囚人たちもパウロに心を動かしたのです。目の前の自由をパウロと共に選ばなかったのですから。

看守も賛美と祈りを聞いていたのでしょう。

パウロが「私たちはみなここにいる」と叫ぶのを聞き、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏したのですから。

ここで感じるのは、伝道は直接言葉を用いることだけが全てではないという事です。

パウロたちの信仰の姿が、主の香りを放ち、多くの人の心を動かしたのです。

今、私たちがいる所が、どの様な所であっても、主が与えて下さった場所であり、するべき事が準備されている所なのです。

困難・絶望・運悪く、今の場所に立っているのではなく、ここにこそ主の計画と意味があると信じて今日も歩みたいです。

「どのように祈るか」「何を求めて祈るか」が重要です。

どのように祈っているかによって、自分の選択が変わり、行動が変わるのです。

自分の希望とは反し、道が塞がれた時・・他に道が準備されているという主からの合図です。

今日も、主に導かれる一日をお過ごしください!!

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