しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
ルカ22:32
今までに何か大きな、取り返しのつかない失敗した事はありますか?
私はあります。とても大きな失敗…
自分にとってその失敗は大きすぎ、今まで誰にも言えずに過ごしてきました。
それを示され、11/5のブログに書きました。
本当に思い出すのも心が痛み、時を戻せるものなら戻したい…
もっと正直に言えば、忘れたいとも思っていました。
そしてそれをブログに書き、もう一度、この失敗について考える機会が与えられました。
私は、長年ずっと、ペテロが三度「主を知らない」と言ってしまった失敗と、同じ位の失敗をしてしまった…と感じていました。
先日、ブログを書くにあたって「ペテロの否認」の箇所を、もう一度読み直しました。
ペテロはイエスさまが大好きで、いつも他の弟子より真っ先にイエスさまの元に駆け寄るタイプでした。
ペテロは「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております(ルカ22・33)」と告白しています。
多分これは、
本当は怖いけれど、ペテロは頑張って告白したのではなく、心からそう思ったんだと思います。
しかし、その告白から数時間も経たないうちに「主を知らない」と三度も言ってしまうのです。
三度目、ペテロが ‟知らない” と言い終わらない内に、鶏が鳴いたのです。
この時、イエスさまは兵士に連行されていました。
捕まえられ十字架の道を歩き始めながらも、イエスさまはペテロが何処にいるのか把握されていたのです。
鶏が鳴いた瞬間、イエスさまは振り向かれペテロを見つめられたのです。
「見つめられた」という言葉が心に留まりました。
イエスさまのまなざし。
イエスさまは、ペテロを見つめられたのです!
イエスさまがペテロを見つめるまなざしは、決して叱責を意味するまなざしではなく、見つめられたのです。
ペテロはイエスさまと目と目が合った時、イエスさまがかつて自分に語られた言葉を思い起こして激しく泣いたのです。
「あなたは私の事を三度知らないと言う」という言葉を思い出して激しく泣いた。と記録されています。
鶏の鳴く声を聞いて、ペテロは我に返ったのです。
もしも、この時イエスさまが「ほら見ろ!あれ程言ったじゃないか!お前の信仰はこの程度だ」というような叱責のまなざしだったのでしょうか。
もし、主が見つめられた瞳の中に、自分の罪を責める思いと言葉だけのまなざしを見たのであれば、
ペトロは「自分は裏切り者」だと、ずっと立ち直すことが出来なかったと思います。
イエスさまの瞳が叱責の思いに満ちたまなざしであったとしたら、
これ以降のペテロの人生、「私は、イエスさまを裏切ってしまった」という呵責を持って生きて行ったと思います。
…ペトロは、十字架の道を歩き進みながらも、自分を見つめて下さった主の瞳に、イエスさまが自分に語ってくださった ‟もう一つの言葉” を思い起こす事が出来たんだと思います。
「私は、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
主は全てをご存知であり、自分が裏切ってしまう事も知って居られた…
その様な自分の為に、予め祈って準備をして下さっていた事に気付いたのです。
自分の信仰が無くならない事を心配して下さっていた。
自分が裏切ってしまった事に、心を痛める事も知って居られた。
心痛める時間を過ごしたとしても、時がくれば「立ち直れる」と期待して下さっている。
そして、立ち直ったら「兄弟たちを力づけなさい」と、将来のビジョンまで与えて下さっている。
…ペテロ、あなたはこの失敗でダメになる人ではない。
この失敗から立ち直れる人だよ。
私はあなたを赦す。
だから、たとえ自分の失敗に心を痛め、落ち込む時間を過ごしたとしても、
時が来たら立ち直り、次に進んで欲しい…
ペテロは、この主の ‟もう一つの言葉” を受け取れたんだと気付きました。
…私もこの ‟もう一つの言葉” を受け取りたい…
今まで自分の消し去りたい失敗から目をそらしていました。
今一度、自分の失敗を受け止め、悔い改め、
主が「ペテロを見つめられた」という御言葉を、自分の御言葉として受け取りたい。
主がペテロに語られた
「私は、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
という御言葉を、自分の御言葉として受け取りたい…
もう一度、自分を見つめ直し、私もペテロと同じように立ち直りたい…
私は、主との時間を過ごそうと思います…
私たちの主は、素晴らしいお方です。
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」