私の忘れてはならない大失敗…【詩篇139:23-24】

2023年

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

詩篇139:23-24

ここ半年程、凄く忙しく過ごしています。

仕事を始めたというのもありますが、次男が通っている高校で問題が山積みなのです。

PTAに参加している事もあり、次から次へと出てくる問題を、学校側とやり取り。

また日本と韓国の教育委員会への報告、日本にある領事館へ訪問。日本にある韓国のいくつかの機関への報告など…

各機関へ報告書を作成したり、アンケートを取ったり署名を取ったり… 時間も頭も凄く使っています。

それと、長年持っている偏頭痛が、ここのところ長く続き、体調も体力も良くありませんでした。

毎朝、起きて洗面を済ませ、聖書を膝に置き、神社に対して祈りをします。(ブログ2023.04.28~)

今朝、祈ろうとすると、集中できないのです。

祈りながらも頭は他の事を考え、しないといけない用事を思い出したり… 今は集中、集中…と思いながらも、沢山の事柄が頭に浮かぶのです。

祈りを辞め、まぶたを閉じ「主よ…主よ…」と心で呼んでみました。

何か、主と私の間に色々な雑草やゴミのようなもの。決して価値があるものではない、役にたたないものが重なり塞がっている様に感じました。

まるで、排水溝に枯れ木や草がいっぱいになり水が流れないような感じ。

「あ…このままじゃ、祈っても祈りが主に届いていない…」と感じたのです。

そして、私は決して忘れてはいけない、自分の大きな失敗をした過去を思い出しました。

私の忘れてはならない大きな失敗とは、母親のお葬式の日の出来事です。

母親が通っていた近所の教会で葬儀をして頂きました。

牧師先生が、弔辞は長男と私の2人がしましょう。と言われました。

亡くなりお葬式の手配など、バタバタする中、「何を話せば良いんだろう…」と考えていました。

考えを巡る中、私は少し不思議な体験をしました。

母親の遺体を一度、自宅に連れて帰り一晩、母親と同じ部屋で兄弟4人で色々と話しました。

そして朝方、兄弟は疲れそのまま眠りました。

私はトイレに行き、もう一度母親の部屋に入ろうと扉を開けると、

部屋いっぱい真っ白な煙に包まれていたのです。

火事!!と思った瞬間。その部屋いっぱいの煙が一瞬で部屋の中央に1つにまとまり、扉を開けた私の顔に飛んできました。

顔にバン!と煙のかたまりが当たり、私は後ろに倒れました。

怪我をすることもなく、痛くも無かったのですが…

何だろう… これは何だろう… 何か意味があるのだろうか…と思いを巡らしました。

母親が何かを伝えたがっているのだろうか…

だとしたら何だろう。

私がこの地を離れても、しっかり生きて行きなさい…という意味?

まだ主を知らない父親と兄2人とその家族の救いを願っているのかな…

分からないけれど、母親が何かメッセージを送ってくれたんだと思いました。

次の日のお葬式は、沢山の方が参列してくれ、座る事が出来ず立ったまま参列してくれた方が多くいました。

お葬式の初めから最後まで、私は耐えながらも嗚咽が…

そして私は弔辞を済ませ、式も終わりました。

沢山の知人が声を掛けてくれました。「弔辞!本当に良かった!」「こんなに立派に大きくなってお母さんも心配してないよ!」と、褒めてもらったのです。

私の兄も「お前、話すの上手だったんだ!」と。

そしてあるクリスチャンの方が私の所に来られ、小さい声で「証するかと思った」と言われたのです…

その瞬間に、私は大きな失敗をした事にやっと気付いたのです。

母親のお葬式は、一生に一回しかありません。

お葬式には、今まで一回も教会に来たことがない近所の方々が400名以上来られました。

しかもその中に、兄の嫁(神社の娘)と兄嫁の父親(神社の宮司)もいました。

後々考えると、牧師先生が弔辞を2人にしたのには意味があったのです。

私に証をする機会を与える為、わざと2人にされたのです。

でも私は、「クリスチャンの母親」の証の話ではなく「良い母親」の話をしてしまったのです。

それに気付いた瞬間… 途轍もない失敗をしてしまった事に気付きました。

そして、その日は1日雨だったのです。

しかも大雨でザーザー降っていました。母親が悲しくて泣くのではなく、泣き叫んでいる様に感じたのです。

私の一生に一回の最後の舞台… それを伝道に使って欲しかった…と言っているかのように…

数日後、私はどうして伝道しなかったんだろう。証ししなかったんだろう。と考えました。

証をしようと思ったけど、出来なかったのではなく、

「証をする」という考えさえなかったのです。

後になって考えても、どうして自分にその考えが思い浮かばなかったのだろうと不思議です。

そして気付いたのです。

私は、「人に認めて欲しかった」のです。

私は人に認められたい!!という意識はありませんでした。

無意識レベルでそのような承認欲求があったのです。

兄弟の中で一番出来が悪い私。何かと要領が悪く、頼りのない私。

家族の中でも私だけが身体が弱く、寝てばっかりだった私。

…いつまでも私は出来ない私ではない。

私もしっかりしてる。

私も上手に話を出来る。それがたとえ大勢の前であっても。

私は、父親や兄弟、周りの人たちに認めて欲しかったのです。

…私は、子どもの時から認められず、「出来ない子」と認識されている事に悔しさがありました。

クリスチャンになっても、その悔しさは「自分の心の傷」だという認識がなかったのです。

悔しい思い、嫌な思い、恥ずかしい思い…沢山ありましたが、全て「過去」だと整理していました。

癒しを求めて祈るほどのものではないかったのです。

でも、母親のお葬式を通して分かりました。

私が「過去」だと整理していた過去は、単なる過去ではなく「傷」だったのです。

自分がその傷を癒しを得ようと、人に認められようと、

母親の一生に一回の舞台で、私は自分の能力をアピールしたのです。

ペラペラと良い話をし、人に共感してもらい褒めてもらったのです。

もし私に傷がなかったら、癒されていたとしたら、人に認められよう!という思いもなかったはず。

無意識レベルで持ってしまっていた「承認欲求」

多分…私が経験した不思議な煙のかたまりは、

母親が私の目を覚ましたかったのではないか…と思いました。

「私の一生に一回の舞台、自分が認められようとするのではなく、伝道をして…沢山の人があなたの話を聞いてくれるチャンスなんだよ。

初めて教会に来る人が沢山いるんだよ。このチャンス、生かして欲しい!!」

それに気付いた時、ラザロの話を思い出しました。(ルカ16:19-31)

お金持ちの人が地獄へ行き、ラザロはアブラハムの懐に。お金持ちが主に願うのです。

兄弟までこんなに苦しい所に来ることがないように、ラザロを遣わせて下さい。と。

主は、「死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と言われました。

煙のかたまりが、母親から来たものか、主から来たものか、もしくは幻だったのか…

分かりませんが、

私はあの時、立ち止まり、もう一度深く考えるチャンスだったのです。

何処から来たかは別として、今の自分、今しないといけない事、今自分がしている事、置かれた状況や環境など、

立ち止まり振り返る機会が与えられていたのです。

でも私は気付かなかった。スルーしてしまったのです。

この大失敗は、本当に忘れたい過去であり、過去に戻れるならやり直したい…

思い出したくない失敗です。

でも絶対に忘れてはいけない失敗なのです。

心の傷やコンプレックスなど、大きさに関わらず、人生に大きく影響します。

間違った選択をします。

主に癒してもらう必要があります!

今朝、自分の祈りが主に届いていない…と感じ、何故か母親のお葬式での大失敗が頭に浮かびました。

…今ある自分の状況、環境、している事、しようとしている事…

立ち止まって考える必要があるのだと思いました。

「目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです(マタイ25:13)」

私たちは、目を覚まして生きて行かないといけないのです…!

今から私は、賛美をし霊的な回復の時間を持ちたいと思います!

今日も、主と共に過ごし、心を探ってもらいましょう!

私たちのうちに傷ついた所がないか…

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