私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
ローマ7:15-17
今日の御言葉は有名なパウロが書いた箇所です。
パウロは新約時代の偉大な神のしもべです。
始めは主に大きく背を向けた人生でしたが、主と劇的な出会いと悔い改めの時間を過ごし、
偉大な主の伝道師へと変えられました。
そして新約聖書27の内、13書簡をパウロが書きました。
聖書は私たちが生きて行く為の指針でもあります。
もちろん、聖書はパウロの人格や能力で書かれたものではなく、聖霊に満たされ書かれたものですが、
パウロは、新約聖書の多くの部分を書くことに用いられた人物です。
そんなパウロでさえ、
「自分のしていることがわかりません」と思う事があったという事です。
自分の中にある罪に勝つこと、治める事が出来ず、苦悩した時間を過ごしていたという事です。
私たちも信仰生活を送る中、
このように感じる事はないでしょうか。
少し前まで特に信仰に問題は感じられなかったのに、
ちょっとした何かがきっかけで、大きく揺れ動いたり。
特に問題もないのに、何となく自分の信仰に疑問が生じたり。
また、「昔はすごく熱く祈れたのに…(過去)」
「凄く賛美で満たされた時期があったけど…(過去)」
安定してずっと同じ熱量で信仰を持ち続けれる事が出来れば良いのですが…
信仰に波があるのです。
凄く良い瞬間もあれば、良く分からない、自分の信仰に疑問詞が出てくる時間を過ごす事もあります。
そして、悲しいですが、教会を離れて過ごす時間を持ってしまう事もあるのです。
このような時期を「信仰の思春期」と表現される方も居られます。
子どもから大人に成長する時間。
葛藤が生じるのです。自分でも何が自分を悩ませているのか分からない時期。
ペテロを思い出します。
イエスさまを3度も知らないと言ってしまったペテロ。
イエスさまがペテロに「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」と言われました。
その様な事を聞いてもペテロは「主が一緒であれば、牢であれ死であれ一緒に…」と答えるのです。
今から、サタンが自分をふるいにかけると言われても、ペテロの信仰は熱かったのです。
しかし数時間後には、主のもとを去り激しく泣きました。
私たちの信仰にも大いにこのように信仰の上がり下がりが起こる可能性があります。
主はペテロに対して「しっかりしなさい!!なんて信仰の薄い人たちなんだ!!」と叱責されるではなく、
主は、ペテロのこの信仰の揺れに対して、
「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
と言われています。
私たちの信仰がなくならないように、主は祈って下さっているのです。
また、イエスさまは十字架に架かる前に
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34a)と言われています。
私たちが、自分でもどうして、何故、このような心の移り変わりがあるのか、
どうしてこんな不信仰な方を選んでしまったのだろうか…
という事が起こる事をご存知であられるのです。
子どもが、思春期を乗り越え大人になるように、
私たちも、信仰の思春期を何度となく乗り越え、信仰も成長していくとご存知でいて下さっている事が感謝です。
主は本当に素晴らしい…
単に「私を信じなさい」とだけ言われたのではないのです。
信じた先に、私たちの心がどのような葛藤を感じるのか、
そんな先までご存知で、
「私はあなたの為にとりなおしている」と言って下さる神さまなのです。
今日も、主に感謝し、葛藤しなからも共に主の道を最後まで歩みましょう!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」