信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。
へブル12:2a
クリスチャンになったら、凄く喜びが溢れてきます。
救われた喜び、罪赦された喜び、永遠の命に対する喜び…
私も、クリスチャンになった頃、喜びが心から湧き上がりました。
生ける水って本当にあるんだ。自分の中から生ける水が沸き上がる感覚を覚えました。
全てが感謝に思え、罪赦された事。主に愛されていること。主が今までも共に居て下さった事。
多くの人は、信仰を持った時、喜びに満たされる時間を過ごすのです。
まるで、疲れ切った心に主が息を吹きかけて下さったかのような感覚。
…これがずっと続くと思っていました。
しかし実際、信仰を持つ前も、持った後も、同じように問題は起き、悩まされ苦しみを感じるのです。
でも違いが一つあります。
クリスチャンになった後の方が、苦しみが大きいようにも思います。
このような表現をしたら、クリスチャンになる事をためらわれるかもしれませんが…
苦しみが大きく感じるのです。
これは正常であり、主が働かれている証拠なのです。
もし、誰かが自分を傷つけてくるような事を言ったとすれば、
主を知らなかった時は、相手に対して抵抗します。反発します。理由を聞き、自分の正当性を次から次へと述べるのです。
もしくは、その相手と距離を取ったりもします。
これは特におかしなことではなく、私たちにとっては自然な一般的な解決方法だからです。
常識的に考えて、互いにどこに双方の勘違いがあったのか、徹底的に話し解決へと進むのです。
原因はどこにあるのか、どちらが悪いのかなど、白黒をつけようとします。
しかし、クリスチャンはどうでしょうか。
誰かが自分を傷つける事を言った場合、
双方で徹底的に話し合うのではなく「敵を愛せよ」という主が自分と共におり、3人で解決へと進むのです。
主の方法は私たちの常識とは違うのです。
クリスチャンとなった私たちは、今までの当たり前の方法に心に引っ掛かりを覚えるのです。
突っ走る事が出来ず、「これでいいのだろうか」「主はこれをどの様に思われているのだろうか」という思いが生じるのです。
今まで行っていた解決方法に疑問や葛藤を覚えるのです。
信仰の戦いが生じるのです。
主は、自分に対して悪を行う者を、自分で解決するのではなく、解決は主に委ねて欲しいと願っています。
自分で白黒つけれないのです。
これは、慣れないうちは本当に葛藤が大きいと思います。
自分で白黒をつけたい! だって、誰が見ても相手が悪い事だから… それをわざわざ主に委ね、自分は指をくわえて待つのです。
もどかしく感じると思います。
どうしてそのような事を、主は私たちに願うのでしょうか。
私たちが主を知る為です。
私たちの方法ではなく、主の方法がいかに素晴らしく、私たちの想像超えた答えを持っているかを私たちが経験する為です。
また、私たちを愛しているから、主がどういたお方であり、主の御業を体験させたいの「です。
傷の大きさに関係なく、裁きは主のものです。
主の領域に私たちは入ってはいけないのです。
葛藤を感じ、苦しく感じるのは、信仰の戦いです。
主を知っていく為の戦い。
日々、沢山の信仰の戦いに1つずつ勝利していく事ができますように!!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」