それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの群衆も一緒に行った。
イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人たちが大勢、彼女につき添っていた。
主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。
そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちが立ち止まった。イエスは言われた。「青年よ。あなたに言う、起きなさい」
すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。
ルカ7:11-15
今日の聖書の箇所は、
やもめになった女性のたった一人の息子が死んでしまい、悲しむ母親を見て憐れまれ、
主が「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われ、青年が生き返った話です。
少し余談ですが、主がこの奇跡を行ったナインという所、
モレ山の北の麓にあるそうです。そこで主は青年を生き返らせるという奇跡を行いました。
エリシャがシュネムの女性の死んだ息子を生き返らせたのは、このモレ山の南側だそうです。(Ⅱ列王記8章)
モレ山では、復活の奇蹟が南側と北側でどちらでも起こった場所なのです。
…イエスさまは弟子たちと多くの群衆と共にナインの町に入られました。
そこでこの一人息子を亡くしたやもめと出会うのです。
当時、やもめになるというのは生活が困窮し、そのレベルは乞食と同等だったそうです。
だから、モーセの律法にはやもめの世話をするようにとの命令があったようです。
そのやもめが一人息子を失ったのです。
やもめは、想像を絶する悲しみの中に置かれたのです。
イエスさまは彼女に目を留められ、近寄って棺に触れられました。
「青年よ。あなたに言う、起きなさい」
そして青年は生き返ったのです。
想像して下さい。
やもめの行列と、イエスさまの行列が出会ったのです。
「死」と「命」の行列が出会ったのです。
イエスさまは、目の前に「死の行列」が向かって来るのをご覧になられたのです。
愛する人の「死」が人間にとってどれ程苦しく悲しいものなのか、
主は、悲しみ悶える人間の姿を見て、心を痛められたのです。
当時は、棺とは現代の箱のようなものではなく板状です。
つまり、イエスさまは遺体に触れられ、「死」に対して命令されたのです。
当時の考えでは、遺体に触れるという行為は「けがれ」を意味します。(民19:11,22)
つまり、遺体や棺に触れるという行為は非常に嫌がられたのです。
しかし、主はわざわざ触れられたのです。
イエスさまに触られた「死」は、「生」に勝てなかったのです。
遺体に主の清さ、主の生命が移ったのです。
闇は光には勝てないのです。(ヨハネ1:5)
そんな事を考えていて気付いたのですが、
このやもめ…信仰があった訳ではなく、
やもめから、イエスさまに助けを求めた訳ではありません。
やもめの立場で考えると、偶然、イエスさまと出会ったのです。
そして、イエスさまが一方的に「深く憐れみ」生き返らせたのです。
…信仰のない者にも、主は憐れまれる!
信仰のない者にも、主は心を留められ、寄り添われる…
そしてふと思いました。冒頭にある「それから間もなく」って、どこから間もなくなんだろうと。
このやもめの前に何が書かれていたのか目をやると、ビックリ。
百人隊長の話でした。
信仰の良い百人隊長が、自分のしもべが病にかかり
「主よ。わざわざおいで下さらなくても…お言葉だけを頂かせて下さい」と言い、
イエスさまが「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」と言われた話です。
すごく、やもめと対照的です。
立派な信仰心を持った、社会的地位のある百人隊長。
信仰もない社会の底辺にいるやもめ。
主は、人を選ばず、信仰だけを見ず、人の地位にも左右されず、同じように癒されたのです。
この2つだけを比べたら、
遺体を触られたという行動から、社会的弱者のやもめの方に深い憐れみを感じます。
言葉だけでも、生き返らせただろうに…と思うと、
触れるという行為をされたイエスさまは、やもめに対して本当に深い慰めをもって生き返らせたんだと感じます。
立派な信仰者にも、信仰のない弱者にも、主は憐れんで下さり、働いて下さるのです。
…この主が、私の主で本当に良かった…と思いました。
主の深い憐れみに感謝します。
今日も、主と共に歩み、主の憐れみに目が留まりますように…
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」