主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすために、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。
出エジプト13:21-22
ユダヤ人たちはエジプトで奴隷生活を余儀なくされていました。
その期間は約430年間です(出12:40)
そしてモーセと言う指導者により、エジプトから脱出し、主が与えて下さった約束の地、カナンの地を目指しました。
イスラエルの民は、出エジプトをする際に、
エジプトの地でモーセのもと、民たちも10個も災いを体験しています。
また、実際にエジプトを出て少ししてから「モーセの海割り」を体験しているのです。
もし、私たちがこれを体験したと想像して下さい。
どうでしょうか。
海が二つに割れ、イスラエルの民は万事休すの状態で助かったのです。
イスラエルの民は海を渡り終え、振り返ると、後を追って来たエジプトの民は海に飲まれていたのです。
これ以上ないと思う位、主の守りや導きを感じる大きな体験をしたと思いませんか?
一生忘れない、また後世に語り継ぐべき出来事を体験したのです。
しかし、民はその様な大きな経験をしてからも、
「喉が渇いた」「お腹が減った」「肉が食べたい」「エジプトにいた時の方が良かった」と不平不満を言ったのです。
その度に、主は願いを叶えて下さり、岩から水を、天からマナやウズラが与えられたのです。
モーセがシナイ山に登り、主から十戒を受けている間に、民たちはモーセが居ない事を不安に思い、金の子牛を作り
「これが私たちをエジプトから導き救い出した」と拝んでいたのです。
民たちは、何度も何度も、不満をこぼしては、主に答えられるという体験をしています。
しかし、何度も何度も不信仰を繰り返すのです。
エジプトからカナンの地まで、直線距離で約300キロ。仮に1日に10キロ移動するとして1か月で到着できる距離だと言われています。
しかし民は、約束の地に入るまで約40年かかっています。
私たちが、出エジプトの話を読んだ時、どう思いますか?
人間って愚かだな・・・
どれほど不信仰を繰り返せば、主が神であると気付くのだろう・・
民はどうして不信仰だと気付かず、この様な愚かな不信仰な行為を繰り返したんだろう・・
と私は思います。
民は、出エジプトをする際、どれほど「約束の地」について理解していたかは分かりません。
しかし、アブラハムやヤコブなどの先祖たちに対して約束の地について言及されている(創12-13)ので、言い伝えとして知っていたはずです。
またモーセが指導者として立てられる時に、主が約束の地について「乳と蜜の流れる地」であると語っています。
また申命記11-12を見ると、民が出エジプトをした後、主が約束の地について語っています。
どれ程、民が約束の地を想像出来ていたかは分かりませんが、情報としては知っていたはずです。
今、自分たちが目指す方向、目指す先について・・
このイスラエルの民たちは、約束の地を目指す道中は、荒野を通ったのです。
その道中で、不信仰や不満を繰り返しながら、目的地までたどり着いたのです。
人間って・・愚かだな・・同じ失敗を繰り返してる・・と思いますが。
これが私たちの姿です。
私たちも、この民たちのように罪と悪から、出エジプトをしたのです。
そして約束の地を目指して、今・・・荒野の地を歩いているのです。
私たちの約束の地・・それは天の御国です。
天の御国への信頼。本当に存在するという認識。どれほどイメージ出来ているでしょうか。
この民たちのように、何となく情報として知っているのと、しっかりそれがイメージされているのとでは、荒野の道中での心の状態は違うかもしれません。
私たちは今、荒野を歩き旅しているのです。
今、歩き始めた人もいれば、もう何十年も歩いている人もいます。
荒野を歩いて、この民のように不信仰を繰り返していないでしょうか?
私は自分の荒野の旅を振り返ると、本当に不信仰を繰り返しています。
民が、水がない。肉がない。と言ったように、私も「あれがない」「これもない」と不平不満をこぼしています。
そして大きな救いを体験しておきながらも、「神は本当に存在するのか」という思いが何度も頭を過ぎりました。
「今までの体験は偶然だったのではないか」と考えたのです。
大きな自分の救いという紅海を渡るような体験をしておきながらも、疑いをもつのです。
イスラエルの民のように、私も愚かな旅路を歩んでしまっています。
どうしてでしょうか。
荒野を歩む中で、人生の「渇き」を覚えるからです。
「渇き」を感じた時、「感情」が不安な方に動くからです。
しかし、感情というものは一時のものであり、
時間や環境と共に移り変わりするものです。
真実ではないのです。
真実は、「どの様な時にも主は私たちと共に居る」と言うのが真実です。
自分が今「主はいないかもしれない・・」と感じるのは、自分が主を感じれなかったという自分の感情だけの問題であり、真実ではないのです。
真実ではない、移り変わりする感情を信じてしまってはダメなのです。
真実は、
昼は雲の柱。夜は日の柱・・で私たちを常に守って下さる神がいるという事です。
自分の移り変わりの激しい感情を信じ、流されてはいけないのです。
荒野の旅・・・
私たちは荒野の旅をしながらも、人生の先輩であるイスラエルの民の記録を読み学ぶ事が出来ます。
感情に左右され不信仰を繰り返すのではなく、
主が共に居るという真実を握り、荒野の旅を歩みたいです。
また、荒野の旅は一人で歩むには心が折れてしまいます。
同志と共に歩んで下さい!!
今日も、荒野の旅を前進しましょう。天国を目指して。
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」