信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
へブル12:2a
信仰を持ちながら、主を疑った事ありますか?
多分、殆どのクリスチャンは信仰告白をした後も、「疑う」という行為をしていると思います。
信仰告白をしてクリスチャンとなってから、
「私、最近、本当に主が働かれるか信じられないんだよね・・」とか
「今も生きておられる主って本当かな」
「あの時(信仰を持った時)は、主はおられると思ったけれど、今は良く分からない・・」
この様に感じる事はないですか?
(信仰告白をしていない人の主への疑いではなく、信仰告白をした人の疑いの話です)
多分、殆どのクリスチャンが「疑う」という行為をしていると思います。
しかし、教会ではなかなかクリスチャンになってからは、その様な事を口にするのは難しいかもしれません。
私は時には、疑いを持ちながら信仰生活をしても良いと思います。
良いというか、仕方がない・・? 自然?
私は何度も何度も、疑いました。
主を疑って、「主がいるならどうして??」と訴えるように祈ったり、主を責めたり・・
昔の日記を見ると・・(笑)
「主が本当に私の神であるというならば、〇〇やってみろ!!」と書いています・・💦
これを書いた時は、自分の長年の傷が痛み、息をするのも苦しくて・・自分の身を制する事が出来ない状態の時・・
普段、誰かにやってみろ!というような言い方はしませんが(笑)
激しく、主に怒りをぶつけています。
でもね・・・多分、これって良いと思います。
良いと言うか、これだけ真剣に主と向き合っているというか、主に訴えているという行為だから。
今になって考えると、自分を正当化して訴えている。自分の訴えが間違っている。勘違いしている。という事が分かります。
でもその時は、分からなかったのです。
自分なりに考え、主に訴えているのです。
主は、その様な間違いを持ったままの訴えも、受け止めてくれます。
疑う位で、主は怒りや裁きを持たれる方ではないと思います。
例えば、反抗期の子どもは、親や学校の先生に対して自分の間違いに気付かず、自分を正当化して訴えてきます。
しかし大人は、相手が反抗期という事を加味して、その子が分かるレベルに合わせて話をします。
多分、主の目には、私たちの姿はこの反抗期の子どものように映ってるように思います。
反抗期の子どもは、自分の思いを思いっきりぶつけてきます。
それを繰り返し、少しずつ心や思いが整えられ大人になるのです。
信仰も同じように思います。
疑い、主に腹を立てたり、「神がいるなら何故・・!!」というような思いをぶつけ、訴え・・を繰り返し、信仰が成長するのです。
疑いが生じた時は、信じられる信仰者に相談するのが良いと思います。
一人で抱え込むより、とりなしの祈りをしてもらいながら、疑いに勝利する為です。
聖書に出てくる人物たちも、疑いを持っています。
アブラハムも、疑いながら主を信じていました。
アブラハムは、その疑いの中で主の誠実さを覚え、疑いの中で、
約束を固いものなっていくのを体験し、信仰が成長し、信仰に揺らぐものが無くなっていき、
イサクを捧げるほどの信仰へと成長していったのです。
イエスさまが十字架で亡くなり、復活した後、沢山の弟子たちに現れました。
その噂を聞いた2人の弟子。
エルサレムからエマオという村に歩いて行く道中、彼らは、イエスさまの復活について疑いをもって話していたのです。
イエスさまは彼らに現れ、この2人の弟子たちが信仰や希望を失い、彷徨い始めている姿を見たのです。
イエスさまは、彼らの思いを知らないから彼らの話を聞いたのではなく、彼らが自分たちの思いを自分の言葉で話させ、
それからイエスさまは、ご自身について話されたのです。
イエスさまは。彼らに直ぐに自分が復活したイエスであるとは語られませんでした。
主は、まず彼らの土俵に乗り、それから彼らを悟らせようされたのです。
彼らと共に歩き、思いを受け止め、共に食事をし、彼らの話に耳を傾けられたのです。
イエスさまは、彼らが自ら真理を悟らせるため時間をかけて、彼らが悟ることが出来るよう準備し、導かれたのです。
疑う弟子を見て、見捨てる事も、叱る事もされませんでした。
主は疑う彼らと共に歩き、
愛を持って彼らに教え、
啓示の準備をし、
彼らの準備が出来た時に、主は彼らの目を開かれたのです。
「疑い」の過程を通して、その人の信仰が強まります。
主は、私たちが疑いと戦うことをゆるされていると思います。
私たちの心の葛藤が、私たちの信仰を深め、主との関係を強くするからです。
疑いは、信仰の根を深く育てるものかもしれません。
・・・だから疑いを持って信仰を育てよう!という話ではないです・・
「疑う事も益として下さる主である」という話です。
今日も、私たちの生きておられる主と共に過ごす一日となりますように!!
PS.「疑わず信じなさい」という御言葉もあります。疑わず信じるという事を選択する行為。時にはその決断する信仰も大切です! 今日書いた「疑い」は成長を促す疑いです。(ちょっとこの差を説明するのが難しい・・・)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」