眺めるだけの信仰生活を送っていないでしょうか【マタイ16:24】

2023年

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

マタイ16:24

韓国でこのようなメッセージを聞きました。

とても心に残り考えさせられましたのでシェアしたいと思います。

聖書は、私たちが特に心を留めずに読んでいる箇所にも沢山の意味があります。

聖書は1つ1つに意味があり、意味があるから記録されているのです。

僅かな言葉にも意味があり、今まで気付かなかった小さな1つの意味を知ると、聖書がもっと意味深いものとなり、唯一無二の「救いの書」であると確信を積むことが出来ると言われていました。

例えば・・

イエスさまが十字架に架かる時、ゴルゴダの丘まで十字架を担いで歩きました。

鞭打たれたイエスさまが歩けなくなった時に、ローマ兵は、丁度そこを通りかかった、クレネ人のシモンと言う人に代わりに十字架を代わりに担ぐように言ったのです。

クレネ人シモンは、十字架刑を見に来ていた群衆の一人ではなく丁度通りかかっただけです。

当時の権力者であるローマの兵がクレネ人シモンを捕まえ、無理やりに十字架を負わせたのです。

拒否する事が出来ない状態なのです。

人間的には、運が悪いクレネ人シモン。

聖書に「クレネ人シモン」と記載されています。この人の記録はごく僅かで、主の十字架を担ぎ、処刑場まで主と共に歩みました。

イエスさまが十字架を背負い、ゴルゴダの丘を登る時、多くの群衆がイエスさまの姿を見ようと集まっていました。

多くの群衆は、イエスさまをあざける為に集まっていました。

その多くの中から主は、クレネ人シモンをイエスさまの代わりに十字架を背負う人を選ばれたのです。

主がクレネ人シモンを選ばれたのです。

シモンと聞いて誰を思い出しますか。

シモンペテロです。

鶏が三度鳴く前に主を知らないと言ってしまったペテロ・・

ペテロは、イエスさまがユダによってローマ兵に売られる前、どの様に信仰告白をしていたでしょうか。

「全ての人が主を見捨てても私は主を見捨てません・・」

イエスさまが担ぐことが出来なくなった十字架・・

本来ならば、クレネ人シモンではなく、シモンペテロが担ぐはずではないでしょうか。

しかし、イエスさまが捕まり大勢の群衆に罵声を浴びせされ、十字架を背負って歩くイエスさまに近寄り、主の十字架を背負えなかったのです。

群衆を掻き分け前に出れない自分と葛藤し、遠くからしか見つめることしか出来なかったシモンペテロ。

イエスさまと共に死にまで従うという思いを持っていたけれど、出来なかったのです。

シモンペテロは、クレネ人シモンの姿をどの様に見ていたでしょうか。

「私が担ぐはずだった主の十字架・・」

「私はこの離れた場所ではなく、主の側にいるはずなのに・・」

と自分の胸を叩きながら葛藤を覚えたのではないでしょうか。

私たちが背負うべき、主の十字架。

イエスさまは弟子たちに、「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われています。

私たち一人一人が負うべき十字架があります。

しかし、私たちがそれを背負わない、負えない・・という選択した時、主はその背負うべき十字架を他の人に渡すのです。

そして、シモンペテロがクレネ人シモンを見たように、私たちも自分が負うべき十字架を他の人が背負う姿を見る事になるのです。

シモンペテロはイエスさまが十字架で死なれた後、どれ程、後悔したでしょうか・・

私たちが負うべき十字架・・とは何でしょうか。

沢山あります。

主を愛し主を賛美する事。

主の祝福を他の人に流す事。

主の福音を人々に伝える事。

主に語りかけを頂いた時に従う事・・

私たちは日々、色々な出来事が起こります。

そして心が揺さぶられるのです。凄く悲しくなったり、怒りが出たり、やる気を無くしたり、絶望したり・・

これらは主からの語りかけです。

主がこの事を通して、私たちが「主をもっと知る事」を望まれているのです。

心が揺さぶられ苦しみを覚える時・・・主は「私をもっと知りなさい」「私をもっと体験しなさい」と語られているのです。

しかし多くのクリスチャンは、耐えるのです。

頑張って試練が過ぎ去るのをただ待ってしまうのです。

時間の経過の中に身を置き生きている私たち。

時が過ぎれば、多くの問題も過ぎ去ります。

主が問題を通して教えよとしている事を悟る事をせず、時間の経過をひたすら耐えて過ごすのです。

これはシモンペテロがクレネ人ペテロを見た時と同じです。

私たちは主が今、私が主の語りかけを聞こうとせず、時間だけを耐えて過ごすだけであるなら、

私たちは主が私に与えようとしているものを、私は受け取れないのです。

他の人が受け取るのです。

そして私たちは、「あの人はいつも主に恵まれて、祝福されていいなあ・・」と見るだけになるのです。

「主は私には語られない」

「主は私の祈りを聞いて下さらない」

と呟いてしまうのです。

今、自分が背負うべき十字架、主が今語ろうとしている事を避けては勿体ないのです。

せっかく、主を知るチャンスを頂けているのです。

心が揺さぶられる時・・主が何を自分に教えようとされているのか、問題に心を奪われず、主を見上げる信仰を持ちたいです。

今日も、主と共に歩む一日をお過ごしください!

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