悲しみ苦しまなくていいのです【ヨハネ20:14】

2023年

彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

ヨハネ20:14

今朝、夢を見ました。

「どうしてマグダラのマリアは、復活したイエスさまを見ても、イエスさまって分からなかったんだろう・・」と考えている夢です(笑)

夢の前後は記憶にないのですが、「どうして分からなかったんだろう」と凄く考え込んでいる自分がいました。

目覚めて、「あれ?どうして分からなかったんだろう」と夢の続きのように考えました。

マリヤは凄く、会いたかったはず。

イエスさまの事が大好きだったはず。

だから、誰よりも早くお墓に向かったのに。

復活されたイエスさま・・以前の姿と違った?・・光り輝くとか?・・と考えながら、

しかし、イエスさまに声を掛けられたマリヤは、園の管理者だと思ったと書かれています。

という事は、普通の人間の姿だったという事です。

マリヤは泣きすぎて、話しかける人を見れていなかったのか・・

どうしてだろう・・と考えながら、四つの福音書を読み比べました。

そして気付いた事は、マリヤ以外にも沢山の人がイエスさまだと分からなかったという事です。

エルサレムからエオマという村に向かって歩いている弟子2人。

2人は、イエスの十字架の出来事と空になったお墓について話しながら歩いている時に、イエスさまに声を掛けられたのです。

そしてイエスさまと会話をするのです。

そして一緒に宿に入り共に食事をしました。イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された時に、この2人は目の前にいる方がイエスさまだと気付いたのです。

またペテロたちは、イエスさまの十字架で亡くなられ、以前の職業である漁師にと戻ってしまいました。

そこにイエスさまは会いに行かれたのです。しかし誰一人としてイエスさまだと気付きませんでした。

イエスさまが「主です」と言われ、初めて気付いたのです。

マリヤだけでなく、弟子の2人(12弟子とは違う弟子)も、ペテロたちも気付かなかったのです。

不思議です。

皆がイエスさまを目の前にしても、それがイエスさまだと気付くまでに「タイムラグ」が生じているのです。

イエスさまは十字架で亡くなる前に「三日後に復活する」と言われていました。

その意味を誰も分かっていなかったと聖書に書いてあります。

しかし、お墓からイエスさまの身体が無くなっていたら「もしかして・・(復活?)」と思わなかったのでしょうか。

マリヤを始め、沢山の人たちはイエスさまが亡くなられ、失望落胆していたのです。

マリヤは・・イエスさまの遺体を探していたのです。

マリヤが求めていたのは、イエスさまではなくイエスさまの遺体だったのです。

「誰が持って行ったんだろう」「私が引取りたい」という思いしかなかったのです。

だから、見ても見えなかったのです。

弟子たちも、ペテロたちも、主が亡くなったという事実に落胆し、マリヤと同じように「誰が持って行ったんだろう」という思いしかなかったのです。

・・・私たちもマリヤと同じかもしれません。

主が導いて下さっていても、自分の思いや考えで頭も心も一杯になり、主の導きには気付かずに失望落胆し、

「私の祈りは聞かれない」

「祈っても答えが分からない」

「主は助けて下さらない」

と悲しんでいる様に思いました。

主は失望している者たちが心を痛め、他のものを求めている姿を見ながらも、声をかけようと近寄って下さっていました。

マリヤが振り向く前から主は共におられ、彼女らが気付く前から、主は語りかけ共に居て下さっていたのです。

しかし、私たちの頭と心には、自分の思いや考えで一杯なのです。

一杯過ぎて、主が入って来れないのです。

主を受け入れる事が出来ないのです。

主を心から待ち望んでいても気付かないのです。

見ていても見れず、話していても誰と話しているのか分からないのです。

主は亡くなる前から「三日後に復活する」と語られていました。

私たちが悲しむと分かって居られたからです。

しかし、全ての人はその言葉の意味を知ろうとしなかったのです。

もし、イエスさまが十字架で亡くなる前に、復活の意味を理解していれば、、

イエスさまを見分けれないという、タイムラグは生じなかったと思います。

十字架の死の後、失望落胆の中を過ごすのではなく、期待を持って過ごせたのではないでしょうか。

復活の意味を知ろうとせず、信じようとしなかった結果、イエスさまを見ても気付かなかったのです。

イエスさまは十字架に架かられる前に、マリヤたちの悲しみに備えて「3日後に復活する」と約束されました。

イエスさまが天に戻られ、今、この地上に主の肉体はありません。マリヤたちの時と時代が違います。

しかし、この世で生きながら私たちが感じる悲しみや苦しみに備えて、

主は、私たちに聖書を与えられました。

聖書の中には沢山の約束が書かれており、私たちが生まれる前から備え、与えられているのです。

しかし、私たちが聖書を読まず意味を理解しようとしなければ・・・

マリヤたちと同じように、不必要に悲しみ失望の時間を過ごす事になるかもしれません。

私たちは無駄に失望し、苦しい時間を過ごしているのかもしれません。

聖書を読み、御言葉を蓄える一日をお過ごしください!

(マタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20章)

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