このような最期、美しいです【詩篇146:1-2】

2023年

ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。

私の生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。

詩篇146:1-2

今月で、私の父親が亡くなって3年。

母親が亡くなって12年になります。

毎年3月には兄弟が実家に集まり、色々な話をします。

実家にあるアルバムを見ながら、ふと思い出したことがあります。

昔、母親が凄く気にかけていた年配の方がいました。

母親に頼まれて数回、一緒にその年配の方の家にお邪魔したことがありました。

母親はその方の家に何年も通い続けていました。

「誘っても教会には行かれないけど、家庭礼拝はしてくれるのよ」と言っていました。

母親は訪ねる度に、聖書を開き賛美をして過ごしていました。

頼れる身寄りがなく、寂しい晩年・・

私の母親は自分の母を高校生の時に亡くしています。もし、生きていたらこの年配の方と同じぐらいの年齢だったらしく、

自分の母を重ねて見ているようにも感じていました。

この方は、私が初めて会った時から物忘れがひどい状態でした。亡くなる前は、誰が誰か分からない状態になっていました。

私の母親が顔を見せても、誰か分からず、母親が自分の名前を伝えると「ああ~!来てくれたの?」と喜び笑顔になります。

しかし5分もせず、今、目の前にいる母親が誰なんだろう?と疑問に思うようでした。

母親は会話の中で何度も意図的に自分の名前を伝え、その度に「ああ!」と喜びを感じておられました。

母親は「一回行っても、何度も喜んでもらえる!」と言っていました。

そして「痴呆って人は嫌がるけど、神さまが与えてくれたプレゼントだと思う・・」と言っていました。

晩年、体力も記憶力も衰えてきます。今まで出来ていたことが、出来なくなり、直ぐに忘れる事が多くなります。

そうなると、人間は凄く不安になるのです。孤独になり恐怖を感じるのです。これから先、私はどうなるんだろう・・・って。

「不安に襲われ苦悩しないように、主がその不安を取り去られてると思う」と言っていました。

何度か訪ねる度に・・

会うたびに記憶力の低下が進んでいるのが目に見えて分かります。

母親が名前を伝えても、反応も薄いのです。目の前の人が誰かも分かって居られず、かと言って「誰なんだろう?」という疑問も持たれていないように見えました。

3人で家庭礼拝をしました。

私の母親は、讃美歌「主われを愛す」を凄く愛していました。

家庭礼拝毎に歌っていました。

最後の家庭礼拝でも「主われを愛す」を歌うと、その年配の方・・急にしっかりした声で讃美歌の本を見ずに賛美をしたのです。

そして賛美が終わると「主よ・・感謝します・・」と言われたのです。

その姿に、私も母親も感動しました。

小さな3人での礼拝を終えると、その方はまた無表情に戻られました。

この姿を見た数日後、天に召されました。

私はこの時、20代・・

「この年配の方の姿を、主が私に見せられたんだな」と感じました。

この様に生きなさい・・と。

私たちは年を重ね、出来ない事が増えていき、忘れる事が増えていっても、

魂は覚えているのです。

全てを忘れても、自分の口と心が主を賛美し崇める事が出来ますように。

人生の最期に「主よ。感謝します」という言葉を発する事ができますように・・

人生の最期は繕う事はできません。

今までの人生が反映されるのです。

人は自分の生きざまが人生の最期に反映されるのです。

今から・・・準備しないと・・

この世での最期、主に感謝して、主のもとに行けるように・・

今日も、主と共に歩み、準備を1つ積み重ねていきたいと思います。

また、この小さくて僅かな母親の働き・・・

誰かに愛情を注ぎ寄り添う事の大切さ。

その愛情を通して人は心を開くのかもしれません。

隣人に主の愛を分ける者となりたいです・・・

今日も、主の中で祝福された一日をお過ごしください!

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