あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
マタイ6:8b
私たちが願う前に、主は私に何が必要かご存知である・・・
有名な御言葉です。沢山の人がこの御言葉を引用します。
うちの次男も、時々引用します。「神さまは、全てを知っているはずなのに・・」「僕に何が必要かご存じのはずなのに・・なのにどうして・・」
そうですよね。
文字通り解釈すれば、主は私たちが祈る前から、何を祈るのか何を欲しがっているのか、どうしたいのかをご存知です。
にも拘らず、祈る必要性があるのでしょうか。
何の為に祈るのでしょうか。
最近、次男の信仰記録を2回程書きました。(2023.1.26/2.3)
次男は、学校で友達との間でストレスを感じていました。
去年の秋ぐらいからクラスの友達と一緒に勉強を始め、この半年程、同じクラスの保護者から、また学校の先生から状況を聞いていました。
また次男本人からも、時折クラスの友達の様子を聞いていました。
次男が今回ストレスを爆発する前から、いつかは爆発するだろう・・と感じていました。
次男も、私がクラスの雰囲気を把握している事を知っていました。
この場合・・・次男は、自分の感情が爆発して限界を感じている事を私に言う必要ないのでしょうか?
本当にストレスが爆発し、自分で自分の気持ちを制御できなくなったら、同じことでも何度も何度ども言いたいし、
自分の主張を聞いて欲しいと思うのです。これが自然です。
主は私より遥かに、よくご存じです。A君やB君の気持ちも、クラスの友達の気持ちも、次男の気持ちも知っておられるのです。
では・・どうして話す(祈る)必要があるのでしょうか。
主は全てをご存知ですが、私たちが知らないからです。
次男は私に、ノンストップで自分の感情を吐き出しました。私はそれを聞き続け、時々質問しながら会話の時間を過ごすのです。
私と次男が話す中で、次男は気付くのです。自分も「自分が文句をいっている友達」と同じであり、偉そうに文句を言っていたけれど、結局は自分も同じような事をしてる。
また自分は頑張っているのに・・という思いから、今自分が置かれた現状に対して、主に不満を感じていたけど、それは見当違いであった・・と
自分にも非があると自らが気付くのです。
これは自分一人で独り言のように、文句を吐き出してもなかなか気付かない事です。
会話をすることにより、新しい発見をするのです。
友達が100%悪いと思っていたし、自分が損をしていると思い、自分が被害者だと思っていたけれど、自分にも改めないといけない点があると・・・
また、自分の高まった感情を否定しない人に受け止めてもらう事によって落ち着くのです。
主との祈りも同じです。
主に祈る事により、主と会話をし、主の御心を知るのです。
私たちは自分の主張、自分の願いしか知りません。主の御心、主の願いを知らないのです。
自分の正しくない部分がある事にも気付いていないし、主の御心も計画も知らないのです。
現状報告をする為に、祈るのではなく・・・私たちが主を知らないから祈るのです。
主は全てをご存知で、無理にスイッチを切り替えるかのように、私たちの心を承諾なしに矯正させないのです。
主は、会話(祈り)を通して、私たちに気付いて欲しいのです。
今日の御言葉とは反対に、「絶えず祈りなさい(Ⅰテサロニケ5:16)」という御言葉もあります。
私たちが分かっていないから、
絶えず祈り、主の御心を知っていく必要があるのです。
最近、次男と話しながら、この2つの御言葉を改めて感じていました。
「主は全てご存じだから祈らなくても・・」という発想は、凄く高慢な思考だな・・と思いました。
「神さま~! わざわざ言わなくても、私に何が必要かご存知でしょ~? 神さまが一番良いと思うもの下さ-い!」って感じ・・・
時折、私たちは「主が王」ではなく、私が王になってしまいます💦
主は私たちの願いを叶える為に存在するわけではなく、私たちが言わなくても全て準備を整えてくれる秘書の様な方でもないのです・・・
今日は、悔い改めの祈りから1日をスタートしたいと思います。
今日も、主と沢山会話をする1日をお過ごしください!!