イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。
マルコ15:39
先日、かかりつけの歯医者に行きました。
完全予約制で患者一人に対して、余裕をもって時間を取っていてくれます。歯だけでなく体のバランスなどの矯正もして、
いつも治療を終え、先生と色々な話をします。そこで先生が、「口の中を見ればその人となりが分かる」と言われました。
「そんな事言われたら、怖くてもうここには来れません(笑)」と笑い帰路へ。
道中、「そうだろうな~多分、1つの道を究め前進している人は、人を見て何か感じ、受け止めるものがあるはず・・」と思いながら、聖書にもそのような人がいたはず・・誰だろ・・と考えていました。
そして思い出したのです! ローマの百人隊長です。
イエスさまが十字架に架かり亡くなった時に「この方はまことに神の子であった」と言いました。
ここに記されている百人隊長は、ユダヤ人の犯罪者を十字架で処刑する事が仕事でした。
毎日毎日、人が苦しみ叫ぶ姿を見ているのです。自分の人生の長い時間、人が苦しみ、人が死んでいく姿を見て過ごしたのです。
当時は、鞭打ちをして十字架に架けていました。
鞭の先には、鉛や動物の骨などが付けられており、肉体を引き裂いたのです。
3世紀の歴史家エウセビオスは、
当時の鞭打ちについて「鞭打たれた者の血管がむき出しになり、筋肉、腱、内臓までが飛び出している」と表現しており、十字架に架かる前に鞭打ちで命を落とす者も沢山いたそうです。
私たちが想像も出来ない痛みであり、見ることさえ堪えれない拷問だったと思います。
イエスさまの正面に立っていた百人隊長は、イエスさまがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言いました。
百人隊長は何を感じたのでしょうか。
12時頃から3時まで太陽が光を失い全地が暗くなった。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。と書いてあります。
そしてイエスさまが最後に言われた言葉は、7つあります。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
母マリヤに「女の方。そこに、あなたの息子がいます」弟子ヨハネに、「そこに、あなたの母がいます」(ヨハネ19:26-27)
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」マタイ27:46
「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)
「完了した」(ヨハネ19:30)
「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)
「人は生きていたように死んでいく」という言葉があります。
死に際に、イエスさまの生き様が反映されたのです。
イエスさまの死に方に、罵りや痛みに対する叫び苦しみではなく、耐える事が出来ない状況にある中にも、マリヤを想い、罪人を救う言葉を口にする姿・・・
イエスさまの姿は、今までに見た事もなく、想像も出来ない姿で息を引き取られたのです。
イエスさまがどういったお方であったか肌で感じたのです。
神さまの愛を「犠牲の大きさ」で感じたのです。
愛は、犠牲の大きさで分かるのです。
苦痛の深さが、愛の深さなのです。
耐えがたい痛みが、罪の代償なのです。
主にとって、私たちはこの様な過酷すぎる犠牲を払ってでも、救い、愛する存在なのです・・
今日、この主の愛を黙想しながら過ごしたいです。
今日も、この大きな主の愛に満たされた一日をお過ごしください!