どうしたら癒しを得れるのか【マタイ6:14】

2022年

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

コロサイ3:13

また、昨日のブログの続きです・・

誰もが持っている心の傷。どうしたら主から癒しを貰えるのでしょうか。

多分、癒しは、ある日突然、奇跡のように降り注ぐものではないように思います。

主の癒しは、法則?決まり? があるように思います。

私は自分の傷が、どの瞬間から癒しを受け始めたのか知っています。(主がどの瞬間から、私に癒しを働かれたのか)

昨日、ちょっと重いブログで申し訳なかったな・・と思いつつ。今日も重い話になってしまいます。すみません。

私の「仕返しの日」が日に日に近づき、クリスチャンになっていた私は、一層苦しくなったのです。

そして、私はその苦しい思いを吐き出すように、相手の人に手紙を書きました。

簡単に言えば、「私はあなたのせいで、15年も苦しんだ。私は仕返しの日を決めて今日まで耐えてきた。私は思いっきり仕返しをしたい。」と、どの様な思いで過ごしたのか、寝れない日がどれ程あったか、どれ程多くの日を闇の中で泣いていたか。大泣きしながら、十数枚もの手紙を何時間もかけて書きました。

そして、「終わり!!」と思い、手紙の上にペンをバンッ!と置きました。

バンっと置いたその瞬間、「あなたが先に謝って!」という内なる声が聞こえたのです。(心の中に声が響いた感じ)

すっごく心外な言葉です!

「私が??」「主よ、あたなは私に謝れと言われるのですか?」「私が何かしましたか?」「私がどの様に過ごしてきたか、あなたが一番ご存知のはずですよね??」「あなたは私の思いをご存知ではないのですか??」

強い口調で途切れもなく文句を言いました。

「私は絶対に、絶対に許しません。相手が、私と同じぐらい傷つき、同じ時間苦しめば、私は許します。それまで私は絶対に許しません!!」と怒りました。(←私って怖いですよね・・引かないでください💦)

そしたら・・内なる声が聞こえました。

「あなたは自分の傷だけを見て来たんだね。相手もあなたと同じぐらい傷つき、あなたと同じ時間、苦しんでいたんだよ。相手の霊がどれ程、苦しんだのか、あなたは知らないでしょ?」と言われたのです。

それを聞いた瞬間、涙が溢れでました。

表現が変ですが、、、私は主に勝てないと思ったのです。私にいくら不満や言い分があったとしても、主は私の遥か上を行く答えを持っておられ、私の人生で起こる一つ一つの出来事にも、私の遥か上を行く何か意味を持っておられるのを感じました。

そして、先ほど号泣しながら書いた手紙を横に置き、相手に対して謝りの手紙を書きました。

「こんな風に私はあなたを憎んでいた。こんなに辛かったから。でも私は今クリスチャンになって、あなたの霊も苦しんでいたことに気付かされた。聖書を読んで、教会へ行き、あなたも解放されて欲しい」というような内容の手紙を・・・先ほどの号泣より、はるかにもっと号泣しながら、始めの手紙よりもっと長い手紙を書きました。

そして、謝りの手紙と聖書を渡しました。

私の癒しは、この瞬間から始まったと思います。

この後、Youth With A Missionという道を開かれたのです。

人に傷付けられたら、辛い・・という一言では片付かないですよね。

昨日も書きましたが、

心の傷は、自分の弱さになり、自分を良くない思いに引っ張ります。生きる事に否定的になり無力になり、肉体的にも精神的にも大きな大きな影響を及ぼします。生きる力を奪うのです。

癒しは・・相手を許す事から始まると思います。

「そんなこと絶対に出来ない!!」と思われると思います。その気持ち、本当に良く分かります。

本当に・・・そんなこと出来るはずがないんですよ。相手を許すなんて、自力では絶対に無理なのです。

だから「主よ、本当にそれが主が私に求める御心ならば、私から相手を許したいと思います。私に許す心を与えて下さい。」と祈ってみて下さい。

私たちに出来る事は、「完璧に私から許す事」ではないのです。

私たちに出来る事は、「私は許す」という事を決断する事です。心では許す事は出来なくても仕方ないのです。だって凄く傷つき苦しいから。

心から相手を許すのではなく、「相手を許す」という決断です。そして本当に許す心は、主に与えてもらうのです。

主は、この決断を待っておられます。

決断をすれば主が働かれます。

私は、聖書に出てくる人物でヨセフが一番好きです。

求道中に初めてヨセフの人生を知りました。ヨセフの話を読みながら自分の人生と重ね合わせ、沢山涙しながら創世記を読みました。

ヨセフは兄たちに売られ、愛する父とも会えなくなり、どれほど一人で寂しく泣いたんだろう・・その悲しい思いは、奴隷から宰相に出世をしても、悲しさは消えず持ち続けていたと思います。

ヨセフは、兄たちと再会し、何度も、罪を犯したことを反省しているかどうか兄たちを試しました。そして、

「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」「どうか私に近寄ってください。」

「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」と言いました。

ヨセフは自分を制する事が出来なくなって、声を上げて泣いた・・と書いてあります。

ヨセフは、兄たちに自分がヨセフであり、私の事で心を痛めないで欲しいと言ったこの瞬間から、ヨセフの中にある、兄たちに売られた、捨てられた、裏切られた悲しさから解放が始まったと思います。

私は求道中にヨセフを知り、「キリストを信じたら、無駄な意味もないちっぽけな人生が、価値のある人生に変えられるかもしれない」と思いました。

本来ならば、「私はヨセフです。あなた方は私に何をしたか覚えていますか?」と詰め寄りたい所です。しかし、

ヨセフは、兄たちを先に許しました。許すだけでなく「自分のことで心を痛めないで欲しい」とまで言ったのです。

今の時代もヨセフと同じように、世の中的には成功していても、心に虚しさや寂しさを持っている人は多いです。

憎しみや怒りを自分の手にギュッと硬く握ったまま、癒しを受けるのは難しいです。

自分から、その硬く握った手を緩める必要があります。

硬くなりすぎた手が開かない場合があります。

「この硬く開かなくなった手を開きたいです」と祈って下さい。

私たちに出来ることは「ギュッと握ってしまった手を開きたい」「自分を傷つけた相手を許したい」と決断だけしかできません。

自分で相手を許すのは不可能だと思います。許す=忘れる だからです。

私は今、自分の過去を振り返っても、心は痛みませんし涙も出ません。心にあった傷は「過去に起きた出来事」として記憶だけが残っています。

そればかりか、心の傷は主と深い関係を結ぶものへと変化し、強く生きる力を与えられました。

自分の傷を通して、主が私の人生に意味を持っていて下さっているのが感謝であり、私に働いて下さった事が感謝です。

決断をして、癒しと解放を受けて欲しいです。

昨日よりも重たい話になってしまいました💦 すみません・・

今日が、癒しの始まりの日となりますように・・・心からお祈り致します。

 

PS. 私が手紙を書いた相手の人は、まだ主を受け入れることが出来ていません。私が聖書を渡してから10年程経った時、その人は私があげた聖書を捨ててしまったのです。私の目の前で捨てられたので「あなたは本当に自分から主を捨てていいのか?」と心の中で思いました。しかし私は、主がその人を愛しているのを知っています。その方は本来、主の御心に適う心を持っているのも知っています。私は捨てられた聖書を拾い、相手に代わって大事に持っています。どうしても、この方の救いを諦められないのです。覚えて祈って頂ければ嬉しいです。

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