イエスさまの変な質問・・【ヨハネ5:6-8】

2022年

イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

ヨハネ5:6-8

今日の御言葉も、教会などでよく聞いた話だと思います。

「ベテスダ」と呼ばれる「神の慈しみの池」があります。そこには、沢山の病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていました。

水が動き、始めにその池に入った者は、癒されるかもしれないという言い伝えがある池です。

ある男の人は、38年もの間、病気にかかっていました。そして癒しを求めてベテスダの池に伏せっていたのです。

そこにイエスさまが来られ、沢山居る中から、この男の人に声をかけられたのです。

「良くなりたいか」

初めてこの個所を読んだ時は、イエスさまって変な質問をするな・・・と思いました。

「良くなりたいか」って、当たり前ですよね・・

良くなりたいから、長年の病気から解放されたくて、男の人はこの池に来ているのです。

主はどうしてこのような質問をされたのでしょうか?

 

この男の人の答えに理由があります。

男の人は、主の質問に対して、「はい。良くなりたいです。」と答えませんでした。

「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

これが、この男の人の心情なのです。

自分の病が治っていない理由を述べたのです。

自力では池に入ることが出来ず、自分を助けてくれる人が居ないという理由のせいにして、癒しを諦めていたのです。

「自分は癒しを受けれない・・だって自分を助けてくれる友が、自分にはいないから・・」

 

体だけが病んでいるのではなく、癒されたいという意思まで砕かれてしまっていたのです。

イエスさまは、人のせいにして現状を嘆く男の人に、「あなたは」どうしたいのか、と問われたのです。

本当に癒されたいのか、回復して立ち上がりたいのか、変わりたいのか、新しい歩みをしたいのか、主体的な答えを求めたのです。

 

私たちはどうでしょうか?

多くの人は、今、自分の置かれている状況の中で失望しています。あきらめているのです。

「良くなりたいか」と問いかけられたとしても、

「努力をしても、成功する事が出来ず、いつも期待に裏切られる」と答えるのではないでしょうか?

「こればっかりは流石に・・・」「自分に与えられた重荷だと思っています」「だってどうあがいたって、今まで無理だったんだよ・・」

そして無力な状態で、無気力なまま、虚しい思いのまま、どうする事も出来ず、自分の問題をそのままにしていないでしょうか?

私たちは、長年癒されない、心の傷や、悲しみ、寂しさ、許せない思い、失望感、拒絶感などを、それぞれが抱えているものです。

そして、変化のない自分が当たり前になって、

いつのまにか抱えている重荷を受け入れ、

癒しと解放を諦めてしまっているのです。

 

今日も、イエスさまは私たちに、「よくなりたいか」と聞かれます。

聖書には、全ての人が罪の中で死んでいるとあります。罪の力の中にいることが、自分の自然の状態なのだと思っているのです。

今日、私は自分の中に、諦めてしまっているものは無いか、探ってみます。

諦めを背負ったまま生きていないか・・・

今日も、主と共に歩む一日となりますように!!

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