大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことをに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
Ⅱテモテ2:20-21
昨日と同じ聖書個所です。
器には、金の器、銀の器、木の器、土の器・・・器には沢山種類があります。
一見、私たちの目には、金の器が一番価値がありそうです。
しかし、これら全て、主が造られた器なのです。使う用途に違いがあるだけです。
金であれ、銀であれ、木であれ、土であれ、用いられる器には一つ共通点があります。
いくら貴いもので、素敵な器だとしても、汚いものならば使いたいときに用いられないのです。
金や銀の器のように特別に貴いものではなくても、主人に用いられる器は清められた物、綺麗な器が用いられ、役立つものになるのです。
とろこで、主はどうして私たちを用いようとするのでしょうか?
主は私が居なくても、全てを成し遂げる事が出来ます。
主も、私たちが用いるより、主が一人で御心を成就される方が、早く、また完璧です。
主を愛する私たちは、「主に用いられたい」「主に使われたい」「主のお手伝いに関わりたい」と思うのです。
小さな子どもが、お母さんに「お手伝いする!」と言うように・・・
お母さんも、料理や掃除は一人でする方が、早く、思い通りの家事をすることが出来ます。
小さい子どもに手伝ってもらうと、手伝ってもらうための準備も必要ですし、お母さんが思うような結果にはなりません。時間もかかりますし、子どもが怪我をしないように神経も使います。
しかし、子どもは純粋に「お母さんのお手伝いをしたい」のです。一緒に過ごしたいし、同じことを共有したいし、「よくできたね!」と褒められたいのです。
お母さんは、子どもの心を良く分かっています。だから、時間がかかろうと神経を使おうと、「子どもにさせてあげたい」と思うのです。
それは、お母さんの「愛」なのです。子どもを愛するがゆえ、お母さんも同じ時間を共有したいと思うし、子どもの成長をこの目で見たいのです。お手伝いをする姿が愛おしいのです。
主が私たちを用いたいと思われる理由と同じです。
ご自分で一人でする方が完璧で早いのです。しかし、主は愛する子どもたちと時間を共有したいし、用いる事によって、信仰を強めて欲しいと思っているのです。子どもが体験を通して成長するように。
主に用いられる為に、私たちは清くいる必要があるのです。これは、主が心を見られているという事です。
主にいつ呼ばれても、「主よ。私はここにいます。私を用いて下さい。」と返事をすることが出来るように。いつも綺麗な心でいたいものです。
今日も、主の愛の中で、豊かにお過ごしください!