苦難の時、主はおられるのか【詩篇46:1-2】

2022年

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。

詩篇46:1-2

「苦難の時、主は何処におられるのか」という言葉をよく聞きます。

聖書を読んでも「主よ。答えて下さい」とか、「私を憐れんで下さい」「私をお忘れになったのですか」「私は切なる思いで主を待ち望んだ」「どうか私を救い出して下さい」「わが主よ。いつまで眺めておられるのですか」「急いで私を助けて下さい」とか・・・

主を待ち望む叫び声が、沢山書かれています。

私も、主はもっと早く、答えて下さったら良いのに・・・と何度も何度も、切に思いました。

そう思うと、次は決まって、「主は、本当にいるのか?」「もしかして、今まで主を感じていたのは、錯覚だったのか・・」と不信仰が頭を過ぎります。

ある時、こんな言葉を読みました。

「船荷のない船は不安定でまっすぐ進まない。一定量の心配や苦痛、苦労は、いつも、だれにも必要である」(ドイツの哲学者 ショーペンハウアー)

確かに・・・と思いました。

船は、重い積荷がないと、安定感がなく不安定になります。多分、飛行機もそうでしょうね。機体をもっと軽量に作ると、ちゃんと飛ばないかも。

この地球には重力があるから、重力に引っ張ってもらわないと、ふわふわとして進めないのでしょうね。きっと。

そう思ったら・・・「苦難の時、主は何処におられるのか」という思考が、ちょっと違うかも‥と思いました。

今の時代、ネットもSNSも普及され、気軽に色んな事をアピールできます。

「こんなに美味しいもの食べた!」「こんな素敵な所に泊った」などなど。

映える写真を付けて、それを見た多くの人が影響を受けます。そして、自分も映える写真をあげてたい! みんなから”いいね”が欲しくなります。

何か良い事ばかりがクローズアップされて、それを見る人は、「いいな~💕 何か幸せそう・・」と感じませんか?

映える写真をあげれる人は、幸せなで満たされた生活を送っている様に感じませんか?

少なくとも、今の自分よりは「幸せで羨ましい生活」だと錯覚してしまうのです。

ネットが発達するにつれ、今まで見えていなかった他の人の生活を覗けるようになりました。

しかも、その覗いている部分は、キラキラと盛られた一部だけなのに、全てがキラキラしているかのような想像をさせるのです。

スマホ越しに垣間見れるキラキラした人たちを見て、自分との現実の差を目の当たりにし、1人でガッカリし、嫌になり、現状に不満を覚え、ストレスへとなっていませんか?

 

私達が住んでいる世界は、自分を含め、全ての人が罪人なのです。

罪人しかいない世界に、問題が生じないハズがありません。

必ず問題が起きるのです。問題と言うのは、詐欺やいじめ、暴力、差別などだけではなく、人間の欲により、自然破壊へと繋がったり、温暖化が起きたり、空気汚染が起きたり・・

自然が歪み、そしてついに、私たちの身体にも影響を及ぼしているのです。

例えば、河川に外来種が増えると、そこの河川の自然形態が変わってしまいます。外来種を排除しないと、以前の自然形態に自然に、戻る訳ではないのです。

崩れた河川形態は、手を打たない限り、増々崩れていくのです。

これと同じで、罪や間違いを犯し続ける人が住む地球は、バランスを崩し続けます。

今ある戦争や、貧困問題など、全てのあらゆる問題が、人間の欲が生んだものなのです。

私たちの生活に、人生に、問題や苦難があるのが当たり前なのです。平穏無事で何の問題もない!という人生はないのです。

これは、クリスチャンであってもなかっても、地上に住む人は全て同じなのです。

しかし、多くの人々は、自分以外の隣人はまるで何の問題もなく、屈託なく楽しんで生きているように思ってしまっているように思えます。

自分だけが苦しい。人知れず苦しんでいるのは、自分だけではないかと思う。

私たちはすぐ近くにいる隣人や、キラキラしていると思っている人たちも、心と生活と人間関係において、深刻な問題をかかえ苦しんで生きているということなど、夢にも思わないのです。

苦難は様々な形で、全ての人の人生にいつも伴っていると考えた方が実際的であり、また聖書的です。

もちろん、苦難や問題は、人間の欲だけが原因ではないと思います。ヨブ記を見るとサタンの攻撃もあるのです。

しかし、原因がどちらであれ、私たちの身に起こっている全ての事柄は、主のゆるしのもと起こっています。

積荷を積んだ船が、重力に引っ張られ、目的地に到達できるように・・

私たちは、主という重力に引っ張られ、目的地にゴールする事が、人生最大の目標です。

私達も、一定量の心配や苦痛、苦労がないと、ふわふわと歩んでしまうのです。

もしも、人生に何の問題もなく、全てにおいてHAPPYであれば、主を必要とするでしょうか?

反対に、主という重力は邪魔になりませんか?

主という重力を切り離した方が、もっともっと自由に楽しめるのに!と考えるのではないでしょうか。

多分私は、自分の人生に何の問題もなかったら、自分の人生に傷ついた経験もなかったら、主なしで歩む人生を選択すると思います。

人生は、死んだら終わりではないのです。その後があるのです。

苦難の時、主はおられるのか・・・ 一緒に居られます。

その苦難は、主がゆるして私にあるものだから。主が、私が主から離れないように与えられたものだと思います。

今の私に必要だからです。

私たちは、苦難も試練も、嫌で避けて通りたいと思いますが、主から見た私には、必要なのでしょうね・・・

主が、今すぐに助けてくれないのは「主の時」がまだ来ていないから。

私は、苦難や試練が来ると、

「私には今、目の前に大きな問題があり押し潰されそうです。私が、主の御心を早く悟れますように。主が今、私に教えようとしている事を、私が早く悟れる力を与えて下さい。」と祈るようにしています。

多分・・・「主よ。どうして助けてくれないのですか??」と祈り続けるより、こちらの方が良いと思います。

主がゆるし、私が遭遇している問題ですから・・

そして、問題が過ぎ去る時、問題遭遇前の私より、ぐっと一歩、主を感じる事が出来、主に近づけていると感じる事が出来ます。

時間の経過と共に、「あーこれを私に教えたかったのか~~」という思いで、問題を振り返る事が出来るのです。

問題に対して「主がゆるしたもの」という意識がないと、問題が過ぎ去っても、問題が過ぎ去ったという事実だけしか得ることが出来ません。

「良かった・・やっと問題が過ぎ去った。辛すぎた・・」という思いしか得ることが出来ないのです。

目の前にある問題は・・・ 「主の語りかけ」だと思います。

今日も、主が私に教えようとしておられることを悟る一日となりますように!

主に近づける日となりますように!

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