この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。
また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。
Ⅰテモテ6:17-19
自分の「人生の土台」は何ですか?
自分が窮地に追い込まれた時、どのような土台を支えに、生きて行くのでしょうか?
私たちは、家族や友人たちと関係を持ち、互いに励まし、支えあいながら生活を送っています。
生きて行く為のお金も食べ物も私たちに必要です。
社会的な地位、役割も、私たちに生きる活力を与えてくれたりします。
私たちは様々なものを人生を歩みながら積み重ね、人生の土台として生きているのです。
人それぞれ、人生の歩みを通して積み重ねていく土台は違ったとしても、みなが何かしらの土台に立って生きているのです。
人生の土台は、とても大切なものです。
しかし、その土台から根こそぎ奪い去られる出来事が、時として起こっています。
自然災害やテロ、戦争・・・
昨日までは日常であっても、突然その日常が無くなるのを、私たちは今、目の当たりにしています。
あまりにも簡単にも土台は崩れ、揺り動かされ、そして失われてしまうのだということを、世界中の人々が痛感しています。
今日の聖書の御言葉・・・
「たよりにならない富に望みを置かないように」とあります。
耳が痛い御言葉ではないですか?
私は「わ・・分かってます・・」と心で呟きながら読みました。
確かに、富も名声もある芸能人が自殺したり、お金持ちの自殺のニュースも聞きます。
多くの人は、「どうして自殺するんだろう」と疑問を持ったと思います。
それは多くの人が、人生の多くの問題を、富によって解決できると思っているからです。
一先ず、富があれば、人生の大部分の悩みが解決されると考えるからです。
多くの人は、幸せになる為、虚しさを埋める為、富を求めているのです。
しかし、富が全てを満たすことが出来ないという事も、薄々感じています。
富が解決できない問題は沢山あります。
また、富は一瞬にしに無くなる可能性のある、もろい土台なのです。
人間の人生の土台にはならないのです。
本当に苦しい時、自分が頼れるもの、私たちの土台となるものとは何でしょうか?
世の中のものは、移り行き、変わっていくもので不変なものがありません。
今日の聖書の個所を読むと、
たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
と書いてあります。富に望みを置くのではなく、神に望みを置きなさいと。
聖書に土台に関する例え話があります。
イエスさまは山上の説教の終わりに、「岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人」について語られました。
どちらが「揺るがない土台なのか」を教えています。
岩の上に建てる信仰は、御言葉を聞いて適応する人です。今日だけ御言葉に従うのではなく、日々取り組む必要があります。一朝一夕で、岩の上に信仰を建てあげれないのです。
日々のデボーションを通して、堅固な岩の上に信仰を建てていくのです。
主との交わりは、私たちの人生の決して揺るがない堅い土台となるのです。
しかしだからといって、主の言葉を聞いて行なう人々には、岩のような堅い土台があるから、人生が安泰だという訳ではありません。
岩の上に家を建てる賢い人にも、砂の上に家を建てる愚かな人にも、等しく嵐は訪れています。
どちらの側にも「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかる」のです。
主を信じて土台として生きていれば、辛いことや苦しいことなど一切ない、という訳にはいかず、相変わらず辛く、苦しい出来事はやってきます。
その上、私たちが苦しんだ結果、私たちがこれまで、大切に積み重ねてきたものが崩される可能性もあります。
しかし、そのようなことが起こったとしても、
私たちの土台は決して揺らぐ事がないということです。
私たちがその嵐の中で自分自身の力では耐える事が出来なくても、
主が、私たちの足を支えてくださるのです!
今日も、主と交わり、堅固な岩の上に信仰を建てていきましょう!
祝福された一日となりますように!