承認欲求について②【Ⅰコリント9:26】

2022年

ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方をしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

Ⅰコリント9:26

 

あるアメリカの宣教師がいました。

アフリカで40年間、宣教師として仕えました。彼は宣教活動を終え、本国に帰る船の中、アフリカに像のハンティングに行っていた大統領も同じ船に乗っていました。

アメリカに付くと、大統領を迎えようと、沢山の人だかりでした。レッドカーペットが敷かれファンファーレが鳴り響き、人々は「おかえりなさい~!」と大歓声が起きたのです。

大統領が船から降りると、レッドカーペットは取り去られ、人だかりもなくなりました。

40年間、アフリカで仕えた宣教師を迎え「おかえりなさい」と声を掛けてくれる人は、港に一人もいませんでした。 自分の町や、家に帰れば、友人や親族たちが「おかえりなさい」「お疲れ様」と労をねぎらってくれるだろうと思い帰路につきました。しかし、町に帰っても、自宅に帰っても、誰も迎え入れてくれる人がいません。

宣教師は悲しくなり、「神さま、あんまりではないですか? ハンティングに行っていた大統領はあのような大歓声を受け、40年間主に仕えた私には、誰一人としておかえりなさいとも言ってくれない。私の人生は何だったんでしょうか?」

「愛する子よ。あなたはまだ本当の家には帰っていない。あなたが本当の家に帰った時は、天の軍勢が迎え入れるだろう」という声が心に響いたそうです。

本当の家とはどこでしょうか?

本当の家とは「天国」です。

私たちの評価は、人から貰うものではないのです。

人は直ぐに忘れてしまいます。

オリンピックで盛り上がり感動しても、去年のメダリストを何人挙げれますか?

去年の事なのに、あやふやな記憶しかありません。 人の評価は一時の物なのです。

主はどうですか? 主は私たちの人生の一つ一つを忘れないでいて下さいます。

そして、主だけが、私たちの本当の評価を付けてくれるのです。

ですから、人に見られようと、見てなかろうと、主に喜ばれる姿で歩む必要があるのです。

人の評価に振り回されず、主を自分の中心に置き、ブレない人生を歩む必要性があります。

人に見せる為の人生ではなく、神の前で生きて行く人生を歩みましょう!

今日の聖書の個所

「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方をしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」

ゴールがどこなのか分からない走り方はしないし、相手がどこに居るか分からない戦いをしないと、パウロは書いています。

しっかりと、主を心の中心に置き、主と共に人生を歩むべきなのです。

今日も、私たちのゴール、天国に向かって歩みましょう!

主と共に歩む一日となりますように!

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