承認欲求について➀【ピリピ4:6-7】

2022年

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

ピリピ4:6-7

 

クリスチャンは、主に罪を許され、癒しを受け、天国への約束まで頂いています。

しかし、実際は教会の中で、心に葛藤を感じ、自己と格闘しながら信仰生活を送ってしまっている人が多くいるように感じます。

救われていると信じながらも、疲れ息苦しい信仰生活ではないですか?

教会の中で、無理をしているからです。

真面目な方ほど、一生懸命に奉仕をします。

その姿は、他の方々から見て「信仰熱心で忠実な人」と目には映ります。しかし、本人は無理して奉仕していることが多いのです。それは、時間の経過とともに心身、霊的に疲弊していくのです。

また、クリスチャンとして「隣人を愛すること」があるべき姿だと思い、自己を犠牲にしながら、人と関わろうとする人たちも多いのです。

人とかかわる事に疲れても、「クリスチャンとして〇〇するべき」という思いから、無理を感じても、続けてしまうのです。

どうして、自己を犠牲にしながらも無理をし、奉仕や隣人を愛そうとするのでしょうか?

それを続ける方々の心の底には何があるのでしょうか?

無理をする人たちの心の動機は、「自分の居場所を見つけるため」であったり、

「自分の価値を高めるため」である事が多いと思います。

奉仕をすすんでする事により、熱心なクリスチャンであり、立派なクリスチャンであるように思われます。そのような私は、教会に居なくてはならない存在だと、周りも自分もそう思うのです。

隣人を愛し、人に気配りが出来る人も、熱心なクリスチャンであり、主によって変えられたクリスチャンであり、素晴らしい頼りがいのあるクリスチャンの様に、周りが思います。そのように見られている自分は「価値ある必要な人間」だと感じ、そんな自分に満足してしまうのです。

奉仕にしろ、隣人を愛する事にしろ、自分の努力では限界があり、疲れてしまうのは当たり前です。

月日を重ねる事により、自己犠牲を伴う信仰生活は、恵みに満たされるよりも、心も霊も疲弊するのです。そして苦しくても辞める事が出来ないのです。

救われているハズなのに、生きづらい信仰生活を送っているのです。

 

「人間として価値ある存在であると承認されたい」と思うのは、人間の当たり前の要求なのです。

人に認められる為に、奉仕をしよう!隣人を愛そう!と思ってる訳ではなく、多くの人は無意識な行動なのです。

ですから、信仰生活に疲弊を感じていたら、自分の心の底を覗いてみて下さい。

私たちは誰に認められたいのでしょうか?

自分の中の承認欲求に気が付いたら、主に満たしてもらいましょう!

人に褒めてもらい認めてもらいたいと言う思いは、依存に繋がります。

人の完全ではない価値基準で、自分の価値を計るのです。

完全な善悪の価値基準を持っているのは主だけです。

私たちは、認めてもらおうと思い、頑張るのではなく、

もうすでに、主に認めれれていると実感できてこそ、頑張れるのです。

今日も主の中で豊かに満たされますように!

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