主の示しに従うという事【創世記22:2-13】

2022年

2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。

4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。

5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもはあそこに行き、礼拝をしてあなたがたのところに戻って来る」と言った。

6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。

7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。

10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」

12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

創世記22:2-13

 

アブラハム・・・信仰の父と呼ばれた人物。

アブラハムから学ぶことは、本当に沢山あります。

 

「見渡す限りの地を全部、あなたとあなたの子孫に与える」という神の約束をされ

実際にアブラハムに子どもが与えられるまで、かなりの年月が必要でした。

アブラハム100歳、サラ90歳の時に、男の子イサクが与えられました。

 

「あなたの父の家を離れて、わたしが示す地(カナン)へ行きなさい。」と主がアブラハムに語られ、自分の土地、親族を離れて旅立ってから25年後にイサクが与えられたのです。

アブラハムにとってもサラにとっても、イサクが生まれて本当に幸せだったと思います。

主は、幸せ真っ只中である、アブラハムに、イサクをいけにえとして捧げるように言われるのです。

主もアブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言っています。主がアブラハムがどれほどイサクを愛していたのかご存じだったのです。

 

こんなことを言われたら、パニックですよね・・・

こんな示しを貰ったら、主に言いたいことが沢山ありすぎます。

「じゃ、どうして私にイサクを与えたのか?」「私たち夫婦にとってイサクがどれほど大事かご存じでありながら・・・」「星の数ほど子孫を増やす約束はどうなったのか?」「これは、約束の変更なのか?」「イサクではなく私(アブラハム)をいけにえに・・というならまだ分かる」「喜びを与えて、その喜びを自分の手で殺させるのか」「主がイサクを取られるならまだしも、私の手でイサクを捧げるというのは、惨すぎませんか」「イサクだけはダメです!!」

 

アブラハムの凄い所は、「次の日の朝早く」旅だったという事です。

アブラハムは、時間が経てば経つほど、従えなくなるのを分かっていたのではないでしょうか?

この聖書の個所にサラが出てきません。アブラハムはサラにイサクを捧げると告げずに旅だったのではないでしょうか?

もしサラにイサクを捧げると話したら、サラはパニックになるでしょうし、少なくもその旅に付いて行ったと思います。

御心に従う為に、自分に考える時間を与えず、迅速に行動へと移したのです。また御心に従うには、足かせとなってしまうサラにも言わずに・・・

 

イサクは「火と薪はありますが、全焼のいけにえの為の羊は、どこにあるのですか。」とアブラハムに質問しました。

「神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」と返したその答えの中に、アブラハムの信仰が見てとれます。 これはイサクを騙す為のうそではなく、「方法はわからないが神が必ず正しいことをしてくださる」というアブラハム自身の信仰から出た言葉だと思います。

 

アブラハムのこの場面の信仰から学ぶことは、

主が示されたら、迅速に行動に移す。(時間を置くと自分の頭はあれやこれやと考えてしまう)

示しに対して「どうして?」「なせ?」などという質問は不要だという事です。

 

主の示しに対して、私たちが理由を聞くのは可笑しいのです。

示しというのは、私たちが理由を聞いて、私が納得したら従うのでしょうか?

この様な関係だと、自分が上司で主が部下の関係になってしまいます。

部下が企画書を出し、それを上司である私が読んで、部下は承諾を得ると企画書に沿った事柄を実行出来るという関係になります。

 

難しいし、「どうして?」「本当に?」など沢山聞きたい事がありますが、

主が望まれているのは、そういった質問ではなく、「はい」という答えだけなのです。

どうしてだか良く分からないけれど、主は必ず良い事をして下さる。意味がある事を示して下さっている。必ず正しい事をして下さっている・・・という信仰です。

思い切って、良いものを選びましょう!!

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