あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
ヨハネ16:24
私が子どもの時に、「人間には、神の形をした空洞がある」と聞いたことがあります。
人生が虚しく感じることはありますか?
楽しい事は一瞬で過ぎ去り、虚しく、心が空っぽの時間は長く感じますか?
虚しく感じる時間は、耐えるに難しく、その虚しさを埋めようと必死になります。
新しい趣味を始めたり、買い物に行ったり、本を読んだり、気の合う友達とお酒を飲ん騒いで虚しさを忘れようとする人も多いと思います。
しかし、それらは「気晴らし」に過ぎず、根本的な解決へとは繋がっていないと、みんな分かっています。
何が私たちの、ぽっかりと空いた虚しさはどうすれば埋まるのでしょうか?
莫大な富を持つ人も、著名人も「虚しさ」から解放されず、命を絶つというニュースを耳にします。「え? あの人が? どうして? 何が不足で…?」と言いたくなります。
しかし、富でも栄誉でも、心の虚しさから解放出来ないようです。
やはり、心の虚しさは「神の形」をしてるからではないでしょうか?
神の形をした空洞にぴったりと収まるのは、神様だけなのです。
家で使用している電化製品が故障すれば、購入したメーカーに修理を依頼します。違うメーカーは対応不可です。作ったメーカーがその電化製品に対して誰よりも理解があるからです。今手にある電化製品を正しく直せるのは、その電化製品の製作者です。
私たちも同じです。 私たちを創造してくださった作り主しか、私たちを癒せないのです。心や体に問題が生じたら、私たちを創造した主の元に持っていくしかないのです。
では、自分の虚しさを、どの様に主の前に持ってくことができますか?
これは「救い」とは別問題です。「救い」は信仰告白をして授かることができます。
しかし、心の空洞を埋める事、癒しを得る事、何らかの中毒からの解放、心の底から溢れ出る喜びなど・・・ 一度の信仰告白で完結するものではないです。
日々の主との交わり、「デボーション(QT)」です。
聖書を読み、賛美をし、祈るという事で。 日常生活を送る中、何度も主を思い出し主の名を心の中で呼ぶのです。
「一日一章」「366日」と言った書名のデボーションが出来る本が何冊かあります。また「リビングライフ」と言う様な月間の本もあります。聖書を掘り下げて毎日読むことが出来るようになっています。
時には信仰書を読むのも良いですね! 自分では気付かなかったことなど、新しい気付いを与えてくれる書物が沢山あります。
本当の所、主を必要としない瞬間は、私たちには存在しません。
私たちは生きている全ての時間が、主を必要とする時間なのです。
この事を、切実に感じることが出来ると、「自分の最大の力」となります。
自分には主が必要で、助けが必要だと身に染みて分かっているからです。
主に頼り切る人生を選ぶことになるからです。