信仰の落とし穴➀【詩編89:15-16】

2022年

幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。

彼らは、あなたの御名をいつも喜び、あなたの義によって、高く上げられます。

詩編89:15-16

 

信仰生活を送るにあたって、気を付ける事があると思います。

今まで「あ~ これって落とし穴だな!」と思ったことが何度もありました。

今日は「信仰の落とし穴」の一つ「自己憐憫」について考えたいと思います。

 

「自己憐憫」って・・・

自分を哀れんだり、可哀そうに思う事。 自分は何て不幸なんだ・・と言う思考がある。 苦労話をよく口にしたり、被害者意識が高くなったり。 要は「私って可哀相」という思考だと思います。

 

マザーテレサの言葉に、こんなのがありますよね。

思考に気をつけなさい。それは、いつか言葉になるから

言葉に気をつけなさい。それは、いつか行動になるから

行動に気をつけなさい。それは、いつか習慣になるから

習慣に気をつけなさい。それは、いつか性格になるから

性格に気をつけなさい。それは、いつか運命になるから

 

「思考」が「言葉」になり、「行動」になり「習慣」となる。

それが「性格」となり「運命」になっていく。

もっと簡単に言うと「自分の思考が自分の運命につながる」

「自分の思考が、自分の人生を左右する」と言う風にも考えれると思います。

 

自己憐憫は、ネガティブで悲観的な口癖が多くなります。

自己憐憫の思考から、明るい未来は生まれにくいと思います。

「私って可哀相」「私ってやっぱり出来ない人間」「私は愛されない」なんていう思考が自分を支配している時、主が恵みを与えて下さっても、それには気付かないし、気付いてもそれに実感がなく、恵みを味わえない。

 

「落とし穴」ってハマってしまうと中々、出れないです。 特に、信仰の落とし穴は深いと思います。

だから、「落とし穴」には敏感になり、ハマらないように気を付けないとダメです。

「落とし穴」だと敏感に気付き、近づかないというのが賢明だと思います。

 

余談ですが、「罪」も同じです。クリスチャンになって、時折、「罪」や「誘惑」が自分の近くに寄ってくる時があります。 「あ・・これって誘惑されそう」と少しでも感じたら、

その時点でその「誘惑」から遠ざかるのが賢明です。 

「誘惑」を横に置きながら「神様、どうか私が誘惑にまけませんように・・・」なんて祈るのは・・・賢明な祈りではなく、すこし愚かな祈りのように思います。

人間は、誘惑には負けてしまうものだからです。

誘惑を横に置いてそう祈るより、自分がその場から離れるのが先です。そして「あの誘惑を近くに置くことがありませんように」と祈るのです。

信仰の妨げとなるもの、主に喜ばれないものは、まず自分から離れるのが賢明です。

 

自己憐憫も、自分の思考にそのクセがあるのなら一層、落とし穴から離れて下さい。

自己憐憫は、何か失敗したり、体調が優れなかったり、人から酷い事を言われた時などに発生しやすいです。

 

普段から、自己憐憫という落とし穴に落ちないように予防する方法があります!

それは「賛美」と「感謝」です。

沢山の賛美をシャワーのように浴びて下さい。 感謝を探す習慣を身につけて下さい。

感謝と賛美が溢れている状態であれば、自分が可哀相だという思考は入ってきません。

だから、感謝と賛美で心を一杯にするように心がけて下さい。

これが、自己憐憫と言う落とし穴に落ちない秘訣であり、敏感に落とし穴にも気付くことが出来るようになります。

今日の御言葉のように感謝と賛美で「御顔の光の中」を歩むことを選んでください。

 

最近の、今日の、今の自分の思考はどうでしょうか?

「この思考は良い状態なのか?」と自分でチェックする必要がありますね!

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