心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言3:5-6
今朝、聖書のこの個所を読んで、何かが心にストンッと落ちたように思いました。
もともとこの御言葉が好きでした。
「自分の悟りに頼るな」って・・・大体、「悟り」って・・
私たちが生きて行く中で成功したり、失敗したり、大喜びしたり、傷ついたり・・・何かを経験してその中で得るものが「悟り」ですよね。(もしかしたら、高尚な人は違うかもしれない・・)
「悟り」ってそんなに毎日得れるものではなく、自分の中で何かが大きく整理できた。自分にとって「真理」を得れた。「深く理解できた」「物事の真の意味を理解できた」と言ったものだと思います。
普通はそのように体得できた悟りは、忘れず大切に記憶し、人生の教訓として持ち続けるのが一般的だと思います。
簡単に言うと「自分からでた最高のもの」だと思っています。
この箴言には「自分からでた最高のもの」にさえ頼るなとかいてあります・・・
自分からでたものに頼るのではなく、主に依り頼む。しかも「心を尽くして主に依り頼む。」
そして、「どこに置いても主を認める」そうすれば・・・「主は私の道をまっすぐにされる」
「どこに置いても主を認める」とは、順境においても、逆境においても、いかなる状況においても、主に信頼するということです。
そうすれば、「主は私の道をまっすぐにされる」のです。
よく人生を道に例えます。時折、Aの道かBの道か「選択」に迷う時があります。また、先(将来)が霧がかかったかのように見えなく、「道が見えない」時があります。
「私の道をまっすぐにされる」とは、こう言った「選択」で迷うことがなくなり、「将来が見えない」といった問題がなくなるのでしょうか?
一生懸命、主に依り頼む人生を送っている人も、送っていない人も同じです。「選択」しなければならない道があり、時折、「先が見えない道」もあるのです。
主に依り頼めば、高速道路のように、信号で止められることもなく、目的地まで迷うことなくストレートに行けるという訳ではないのです。
今朝、この御言葉を読んで思ったのは「私の道をまっすぐにされる」とは二つの意味があるように思いました。
1つは、平安の問題です。 主を信じても信じなくても、人は同じように「道の選択」「先が見えない」時があります。 今歩いている道が、舗装もされていなく、石がゴロゴロ、雑草も生えています。 同じ道を歩いても、ある人は、その道が歩きにくく、砂埃が気になり、この道で合っていたのか不安になることが多いでしょう。 ある人は、現代ではあまりない舗装されていない道を楽しむかもしれないし、石や草花の存在を通して主の臨在を感じたりします。 同じ状況であっても、人によっては捉え方が違います。 主に依り頼む人生は、どんな道であっても「平安」や「喜び」が根底にあります。 人から見て「良くない道」であったとしても、主と共に歩む道は、「不安」を感じる道ではなく、「心底楽しい」と感じる道なのです。
2つ目は、「まっすぐされた道」の先、ゴールが決まっているという事です。人生の道が「選択」や「先が見えない」など、外見的にはくねくね曲がっているように見えるかもしれません。でも間違いなく「ゴールが決まっている道」なのです。「ゴールまで、まっ直ぐな道」なのです。
私たちのゴールは何処ですか?
私たちの人生のゴールは天国です!
是非、主に依り頼む人生を選んでください! これは、日々、瞬間瞬間選ばないとダメです。
私たちは弱い人間だから、すぐに道を変えてしまう可能性が高いです。
「今日も、主に依り頼む人生を選びます!」と祈りましょう!