ペテロに与えられた1時間【ルカ22:54-62】

2024年

彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。
しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。
それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。
しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。
彼は、外に出て、激しく泣いた。

ルカ22:54-62

私は最近、新たな祈りの課題があります。

次男の学校の問題において、沢山の話し合いがなされています。

その度に、後になって

「あーーこんな風に言えばもっと良かった」

「どうして相手の意図に気付かなかったんだろう…」

などと、後になって後悔や気付くことが多いのです。

自分はどうしてもっと俯瞰(ふかん)して物事を見る事が出来ないんだろう…

多分、多くの人も同じかもしれない…

でも、もっと俯瞰した視野や思考が欲しい…という祈りの課題。

…そして、今日聖書の箇所は、今日読んだ部分なのです。

ペテロの3度主を知らないと言ってしまった話。

ペテロが自分の人生を振り返った時、

この事が、自分の人生で最大の失敗であり汚点だと思うと思います。

多分、思い出す度に心を痛めるほどの出来事だと思うような気がします。

私にもペテロのように、自分の人生を振り返った時、

大きな失敗・汚点があります。

私も自分の過去を思い出す度に、

このペテロの話を読む度に、

自分の失敗を思い出され、涙がでます。

どうしてそんな事をしたんだろう…

どうしてそんな失敗を選んだんだろう。

ちゃんと考えれば分かったハズなのに…

そんな事を考える度に、涙が…

変える事が出来ない過去に対して、心が痛むのです。

私の思い出したくない大失敗 ⇩

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今日、このペテロの箇所を読んで、

凄く不思議な感じがしました。

聖書の文字が私に詰め寄って来るというか、

聖書の文字が私に迫って来る感じを受けたのです。

ペテロはこの大失敗を犯す数時間前に

「主よ。ご一緒になら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

と告白しています。

しかし、実際に主が兵士に捕まり連行される姿をみて

「遠く離れてついて行った」とあります。

イエスさまはどうなるんだろう…という心配でドキドキしたと思います。

しかし既にこの時、主と距離がありました。

私は今日、聖書を読む前はペテロは「少し離れてついて行った」と思っていました。

しかしルカの福音書を読むと「遠く離れてついて行った」のです。

この距離は、主との距離だと思います。

もう既に、主との距離(信仰の距離)があったのです。

そして、ペテロはイエスさまの行く末を気にしながらも

ペテロも人々の中に「混じって」いたのです。

もうこれは、人々の中に混じり込み「身を隠して」いたのです。

主との距離は、信仰を隠すという段階に入ったのです。

そして、女性に声をかけられました。

ペテロは直ぐに「いいえ、私はあの人を知りません」と答えました。

すると「しばらくして」同じように声をかけられたのです。

すぐさま「いや、違います」と答えたのです。

それから「1時間ほどして」また声をかけられたのです。

「あなたの言うことは私にはわかりません」と答えたのです。

私は「1時間ほどして」という単語に凄く心が引っ掛かりました。

わざわざ1時間程して…と記録しているのです。

始めの2回は、テンポよくというか

声をかけられ、否定し、声をかけられ、否定し…というように

あっという間に2回否定してしまっているのです。

数時間前、イエスさまから「あなたは3度私を知らないというだろう」と言われていたのに。

そして2回目から3回目の間に

1時間という時間がとられたのです。

ペテロはこの間、何を考えていたのでしょうか。

イエスさまはどうなるんだろう…

もしかして殺されるんだろうか…

そんな事を考えたら、ドキドキハラハラしたと思うのです。

この一時間、どうなるんだろう…とドキドキし続けたペテロ…

主はペテロに1時間という時間を与えれたのです。

主は自分を、先ほどした告白を、

思い出して欲しかったんだと思います。

もう、2回知らないと言ってるよ…! あと一回だよ…

ペテロ…あなたはどれ程この失敗に心を痛めるだろう…

私を思い出してほしい。

数時間前の信仰を思い出してほしい!

主は1時間、ペテロが主を思い出す事を

祈り待たれたのではないか…

ペテロは、ペテロなりに主を心配して、ドキドキして

もう、それ以上考えれなかった…

この与えられた1時間の間に、ペテロは今何を考えないといけないか。

自分を俯瞰して見れる時間だったのに…!!

今、自分はどうしないといけないのか。

今の自分の選択、態度、発言は合っているんだろうか。

今、自分は正しい所に立てているんだろうか…

それを思考しないといけなかったのに…

ハラハラドキドキに心を支配されていたのです。

そう思うと…

私は今、どの段階なんだろう…

主から距離ととって、主について行こうとしている段階なんだろうか。

それとも、1回目の失敗をし終えた段階なんだろうか。

それとも、2回目も知らないと言ってしまった段階なんだろうか。

もしくは、主が与えられた1時間の間に立っているのではないか?

と思ったのです。

私たちは、自分の人生、自分の信仰生活を

俯瞰してなかなか見つめ直す事ができません。

だって…日常にいっぱい問題が生じるから。

だって…人から受けた傷が痛むから…

主が本当に「今、私が考えて欲しいこと、思い出してほしいこと」

以外の事が、頭を支配している様に思うのです。

私は今、何処に立っているんだろう…

と思った時、

自分は今、1時間という時間の中に存在している様に感じたのです。

…という事は、

私は今、立ち止まり、自分の人生・信仰を俯瞰してみる必要がある。

色々な思いを一旦置き、一旦捨て、

自分の信仰を見つめ直す時ではないか?

聖書を読みながら、そんな事を考えさせられたのです。

聖書が自分に迫って来たように感じました。

「あなた…今主が与えられた1時間の中にいるんだよ…」って。

私は今、

色々な考え、出来事、学校の事、子どもの事、友達の事、祈りの課題…

全てを一旦、手を放し、

自分の信仰を俯瞰するチャンスなんだと思います。

主が私に何を望まれているのか…

主に聞いてみようと思います。

鶏が鳴く(この世を去る時が来る)前に…

今するべき事は、自分の人生を振り返り俯瞰し、見つめ直す。

主が下さった時間の中を生きている様に感じました。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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