どうして人生は虚しいのか【マタイ16:24-27】

2024年

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。

マタイ16:24-27

私たちは何のために生きているのでしょうか。

幸せになるため?

出世する為?

経済的に余裕を持って生きるため?

もしかしたら、何か使命だと感じて生きているかもしれません。

私たちはどのように、何を求め生きて行くべきなのでしょうか。

伝道者の書を見ると「全てのものは虚しい」と何度も書かれています。

楽しい事、満たされる事、喜べる事、快楽を追い求めても全てが虚しく、

私たちの人生は、風を追うようなもの。

日の下には何一つ益になるものはない。と書かれています。

どうしてでしょうか。

この地上で懸命に追い求めて、やっと手に入れたものは…

「永遠のもの」ではないからです。

仕事が成功し、多くの富を手に入れることができ、凄く神さまに感謝するかもしれません。

しかし、それが一気に何かをきっかけに失う事になったら…

どうでしょうか。

まるで人生が終わったかのように、絶望の谷へと一気に突き落とされたように感じてしまいます。

綺麗な洋服や、高価なバッグ、宝石、また大きな家やカッコいい車も同じです。

やっとの思いでローンを組み、願ったものを手に入れても…

それはいつか私たちの手から離れてしまうのです。

私の手からスルリと落ちていくのは、明日かもしれないのです。

もしかしたら、ある日突然、奪われるかもしれないのです。

永遠でないものを追い求めるから、私たちは虚しさから解放されないのです。

朽ちるものを求めるから、満たされる事を知らないのです。

私たちクリスチャンの人生の価値基準、判断する基準は、

この世の基準とは大きく違うのです。

自分の人生を豊かさを追い求めるのは、この世の価値基準なのです。

虚しさを忘れる為、自分の人生の豊かさを追い求める行為は、

自分を本当に満たすものではないので、

満たされようと終わることなく、目先のものを追いかける人生になります。

結果、主から遠ざかる人生となってしまうのです。

…私たちは、常に何をするにも「自分の為」なのです。

自分(自分の大切な家族)の為に、一生懸命仕事をするのです。

幸せを感じることが出来るように、外食をしたりショッピングをしたり、楽しむのです。

私たちは何をするにしても、自分の為…という思いが根底にあるのです。

そして、それはこの世では、何の不思議な事でも変な事でもなく、

当たり前のことなのです。

しかし、イエスさまの価値基準は

「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て…」とあります。

自分を捨てるとは、自分を中心としない。

イエスキリストを自分の人生の中心とし、私の人生の目的とするという意味です。

つまり自分の為に生きないというのです。

私について来たいと思うなら…と言うのは、

献身者だけを指すのではないと思います。

クリスチャンとなり、神の子どもとして歩む事を望むなら…です。

こんな風に話をすると、クリスチャンになるという決心がハードルが高くなるかもしれません。

しかし、これは虚しい人生からの解放の第一歩である、

何に基準を置いて生きるか… という事がずれてしまうと、

クリスチャンであっても、いつまでも満たされない、虚しさを感じる人生のままなのです。

私たちは、クリスチャンでありながら、この世の価値観が正しいとされているこの世で生きているのです。

意識をしないと、簡単にこの世の価値観に流されてしまうのです。

永遠でないものに喜びを求め、満足を求めてしまうのです。

主を信じますと告白しながら、満たされない思いから解放されないのです。

私たちの主は「敵を愛せよ」と言われる神さまです。

この世の価値観とは正反対です。

敵は憎む者であり、必要であれば戦う対象です。

決して自分の身方ではない存在です。

それが当たり前であり、常識なのです。

敵を憎むというそのような思いに、人々は違和感はないのです。

…私たちは、本当に毎日聖書を読む必要があります。

古い習慣の私が、まだ私の中に残っているのです。

自分の価値観は、この世の価値観と違いを持っているだろうか…

立ち止まって考えてみる必要があります。

私たちは流れるプールの中を、逆流しながら歩む人生なのです。

何の意識もせずにいると、

流れるがまま流されてしまいます。

自分の周りの人も流れて生きているので、それが間違っているとは気付かないし、

流れに逆らって生きるより、流される方が楽なのです。

「主の価値観が、主の思いが、私の思いとなりますように」と祈る事から始めたいです。

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