目に写るものが現実ではない…【民数記14:7-9】

2024年

イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。
ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

民数記14:7-9

最近「現実ってなんだろう…」と思い始めました。

聖書を見ると、

イスラエルの民は、約束の地カナンを目指してました。

12人の偵察隊をカナンの地に送ったのです。

そして40日かけて偵察したのです。

帰って来た偵察隊は、

モーセや、アロン、全会衆に見たままの「現実」を伝えました。

現地の果物を見せながら、

「そこにはまことに乳と蜜が流れている」と。

「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きい」

「私たちはそこでアナクの子孫を見た」

そして各地域には先住民がいると伝えたのです。

これは、10名が見た現実。

そして「自分たちはいなごのようだ」と言ったのです。

多分、素直な気持ちで現状をみて、そう感じたのです。

しかし、ヨシュアとカレブは、違う事を言いました。

「私たちは是非とも、上って行って、そこを占領しよう」と言ったのです。

そして「必ずそれができる」と言ったのです。

これは、他の10名と同じものを見て、そう言ったのです。

この差は「主の目」で見ているかどうかの差。

目の前の現実を「信仰を持って解釈」したかどうか…

ヨシュアとカレブは、偵察隊を待っていた群衆に対して

10名とは真逆の内容を伝えたのです。

…そして、この結果はどうなったでしょうか。

群衆は、ヨシュアとカレブの言葉を聞いて、

大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かしたのです。

そして1人のかしらを立ててエジプトに帰ろうと言いました。

そしてヨシュアとカレブを石打ちにしようとさえしました。

しかし結局はどうなったでしょうか。

できない…と言った10名は、

約束の地、カナンに入る事ができませんでした。

そして、出来ると言ったヨシュアとカレブは、

約束の地、カナンに入れたのです。

という事は、

目の前の現実をそのまま受け取った事柄は、

現実とはならず、

信仰を持って目の前の現実を解釈した事柄が、

現実となったのです。

私たちの人生は…

主の解釈が現実となるのです。

しかし、実際は自分の目に写る状態、環境に

私たちは心を奪われてしまっているのです。

…もうダメだ…方法がない。

八方塞がり…解決できない…

どうする事もできない…

この様に感じる事が多いです。

どうする事もできない!と思えば、

どうする事も出来ない事が現実となるのです。

という事は、

私たちがこの様な状態が自分の現実だと見える時、

私たちがまずするべき事は、

嘆く事ではなく、自己憐憫に陥る事でもなく

「主はどの様に見られているのか」

を、祈りを通して主に教えてもらう。

私たちの目に写る現状が、現実ではない。

自分が感じる現実が現実ではない…

現実は、

信仰を持って目の前の現実を解釈した事柄が、

現実となるのです。

多くの人が目に見える現実に引っ張られるのです。

世の中は、主の解釈とは違う方向に力が向きやすいのです!!

今日も、主の目で物事を見て、感じる事が出来ますように!!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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