私たちは、懸命に祈り過ぎてるかも?【詩篇:1-3】

2024年

 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

詩篇1:1-3

先日、次男が学校から封筒を持って帰ってきました。

どうやら適正検査的なものをした様子。

次男の性格や思考、関心を踏まえ、

どのような方向性の進学が向いているか…などが書かれていました。

「あー合ってる!」とか「えーそうかな~」と言いながら

検査の結果を見ていました。

へーと思いながら、私も横から見たのですが、

ふと、これって「あなたはこんな人なんですよ」という診断書のようなもの。

…あれ?なんか…どうなんだろう…と思ったのです。

自分の事について「あなたの性格はね。こうだから、この様な仕事に就くと良いんだよ」と

教えてくれるのです。

私たちは「あなたはこんな人なんですよ」と教えてもらいたい…と思う事があります。

自分の事なのに…

自分が自分の事を分かっていないのです。

私がどのような人間なのか、

多くの人が見失ってしまっているのです。

ですから、学校でもこのような適性検査があるのです。

自分と言う人間を理解したい…

自分がどのような人生を歩むのが正解なのか

自分に何が向いているのか、

何を選択すれば自分は幸せに生きていけるのか…

そんな事を考えていると、

私たちって凄く一生懸命に祈り過ぎているような気がしました。

「神さま! 私の道はどちらでしょうか?」

「Aに進むのが良いのか、Bに進むのが良いのか?」

「主の御心を教えて下さい!」

「主よ。どちらがあなたの御心なのでしょうか?」

「あなたに喜ばれる選択はどれでしょうか?」

自分に関する祈りの中で、

どことなく、どちらかが正解でどちらかが、正解ではない…?

どちらかは喜ばれ、片方は喜ばれない?

どことなく「私の道を教えて下さい!」

「私に対する主の御心を教えて下さい!」

「どれが主が喜ばれる道なのでしょうか?」と…

また時には

「主よ。どうしてこのような事が起こるのでしょうか?」

と祈るのです。

今起こっている問題の理由を知りたいのです。

どうしてこのような事が自分に起きたのか…という理由を聞きたくなるのです。

自分の問題や選択の1つ1つにおいて、

「これはどうですか?」「こっちも教えて下さい」「あれはどっちが良いですか?」と

熱心に祈り過ぎてるかも…

主の御心は…

私たちが日々主を覚え、主と共に生きていく事。

主を愛し、隣人を愛する事。

何となく…

この大前提の御心より、

「自分だけの御心」

「自分の問題に関する御心」に

集中し過ぎているのかも…と思いました。

どちらかが正解でどちらかは不正解と言う場合は

余りないと思います。

祈り主に導きを求めるという時点で、

大きな罪を犯そうかどうかを迷った祈りではないと思います。

私が何を選択したからと言って、

主の私に対する愛が変わる訳ではないのです。

主の一番の御心は

主の中で、主が与えられたところで

神の子として生きていく…

だから、私たちは主のもとで根を張り生きていくべきなのです。

そうすれば、主から栄養を貰い、成長していく事ができる…

そしてその栄養によって、

枝を付け、実を実らすことができるのです。

主のもとで生きていく…

主はそれを望み、十字架にかかって下さったのです。

主が十字架にかかられたのは、

私たちが主と共に生きていく為に、死なれたのです。

私が何か成功する為、豊かに生きていく為に

イエスさまが十字架にかかられたのではない…

私はどこで根を張っているいのか…?

それを心配せず、

実の心配をしている…💦

私たちは、自分が誰なのか、

自分がどのような人なのか…

しっかり記憶する必要があります。

私は神の子であり、それ以外ではない…

主を信じて、静かに主のもとで生きて見よう…

主が私に、どの様な実を付けて下さるのか楽しみにしながら…

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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