主が重要視されること【マタイ22:37-39】

2024年

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

マタイ22:37-39

「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」

三浦綾子さんの「氷点」に出てくる言葉です。

凄く考えさせられる言葉だと思い、

氷点を読んだ随分昔に、書き留めたノートから久しぶりにこの言葉に出会いました。

自分の人生を終えて、残るもの。

懸命に集めたものではなく、与えたもの。

与えたものって何でしょうか。

三浦綾子さんはどのような思いでこれを書かれたのか…

彼女はクリスチャンです。

まず、人生で集めたものは、何となく沢山思い浮かべる事ができます。

能力や学歴かもしれませんし、資格や、名声。

今務めている会社のネームバリューかもしれません。

実績や持ち物かもしれません。

家や車。もしくは趣味の何かかも。

人脈や友達。経済力。人気や知名度…

これら多くの物は、簡単に手に入れれるものではなく、努力や時間などを費やして

手に入れたものが多いと思います。

人生の内に集めたものですから、簡単に棚ぼたのように手に入れたというより、懸命な努力によってかもしれません。

感嘆には手に入れることが出来ない、それらのものよりも「与えたもの」の方が重要だというのです。

「与えたもの」って何でしょうか。

人を助けることや、そこに費やされる時間かも。

また思いやりや、同情。愛情。犠牲かもしれません。

「与えたもの」って言う事は、自分の手を離れ誰かに渡したもの(譲った)です。

聖書的に考えると…何でしょうか。

主が私たちに一番願っている事は、

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』

簡単に言えば「全身全霊で主を愛し、隣人を愛しなさい」と言えます。

主が私たちに願っているのは「愛」なのです。

私たちは、この世に生まれ成長するによって、沢山の努力を通して手に入れようとするものがあります。

もしかしたら「お医者さんになりたい!」というビジョンを持つかもしれません。

「政治家になって良い国をつくりたい」

「学校の先生になって子どもたちの成長の手助けをしたい」

「楽器を演奏し、主に栄光を帰したい」

色々な夢があるかもしれません。

しかし、主が一番私たちに望まれている事は…

「全身全霊で主を愛し、隣人を愛する」なのです。

ということは…

私たちはこの世で「どれだけ愛されたか」よりも

「どれだけ愛したか」が大切なのです。

「どれだけ愛したか」が天の御国で主に会った時に、

主が見られる部分なんだと思います。

「あなたは私をどれ程愛しましたか?」

「あなたは隣人をどれ程愛しましたか?」

とイエスさまがペテロに聞いたように、私たちにも聞かれるかもしれません。

私たちの住むこの世では、

自分と合わない人、攻撃してくる人、ややこしい人とは、

距離を置き付き合うのが賢い生き方だとされています。

しかし…

私たちが愛しやすい人だけを愛したとしても、それに意味はないとは思いませんが、

それでいいのだろうか…とも思います。

愛しやすい人だけを愛するのは、誰にでもできることだからです。

学校や会社、教会の中にも愛しにくい人が居ると思います。

それは、主が私に「隣人を愛する」という訓練の為に出会わせているのかもしれません。

私の愛が、もっと大きく、もっと深く、もっと広く成長する為に。

訓練なくして、私の愛は成長しないから…

相手が愛してくれるから、自分も愛するのではなく…

相手の思いは関係がないのです💦

相手は私の事をどう思っていようと…なのです。

今、自分の周りにいる難しい人は、主が与えられた課題かもしれません。

課題は、それに取り組みクリアして欲しいから与えられるもの。

今日は、このことを覚えて一日を過ごしたいと思います。

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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