これは、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者によってイスラエルを試み、そして知るためであった。
士師記3:4
今でも多くの時間を、子どもの学校の為に使っています。
先日、韓国の機関に行く為に、
韓国の保護者に参加を求めました。(韓国語で話す為)
いつも共に行動をしているPTAの会長たちは
韓国語が出来ず、私一人では力不足だと判断したのです。
そして、その機関で色々な話を終え、
保護者だけになり、
今日の事を踏まえて、これからどうするかを
話し合いました。
色々な話をする中で、韓国の保護者の人が
私に「今、凄く辛い…」という話を始めました。
クリスチャンの彼女は、
自分が今、どれほど辛いか、苦しいかを訴えるのです。
そして「この苦しみがなくなるように祈って欲しい」と言いました。
彼女の気持ちは凄く分かります。
しかし、祈るのが難しい…💦
「今、自分に起こっている問題を解決し、
苦しさから解放して下さい」という祈り。
そのように祈るのも分かります。
しかし…
多分、その祈りは御心に沿えていないように思うからです。
今日の御言葉を見ても分かるように、
イスラエルの民は、エジプトから出て、
何度も試練にあいました。
そしてその試練は
主がイスラエルの民に与えられたのです。
試練とは、ヨブのように悪が働き自分の身に起こる事もありますが、
主が与える事もあるのです。
少なくとも、悪が働いたとしても
主がよしとされない限り、私たちには起こらないのです。
…どうして主は、私たちに試練を与えられるのか。
試練なんてなく、平和に毎日を過ごしたいものです。
しかし、人生で何度も何度も、苦しい思いをして過ごします。
試練があるからこそ、
私たちは、自分には力がない事を知り、
そして主に力がある事を知るのです。
そして、試練を通して、私たちの信仰を成長させる為なのです。
多くの人は、試練を通して主と出会います。
苦しい思いを通して、主を知るという証を良く聞きます。
もし、試練がなく、毎日平穏無事に過ごせたら…
私は、主を忘れると思います。
主に祈る事もせず、聖書も読まない気がします。
賛美もせず、教会からも離れると思います。
だって…苦しい事がないから。
主がいなくても、生きていける状態だから。
私たちが主を忘れない為に…
私たちの信仰が成長する為に…
私たちが主を信頼する事を選択する為に…
聖書を読むと、
主は、単に苦しみを取り除いたり、
敵の心を変えたり、
と言うような事をされないようです。
主は、苦しさを通して、私たちに伝えたい事があるのです。
苦しさには意味があるのです。
ですから、
「この苦しみを取って下さい」という祈りより、
「主よ。今私に何を教えようとされているのでしょうか。
教えて下さい」と祈ろうべき…。
主は、悪が行う事さえも、用いられ
私たちに語ろうとされているのです。
苦しさの渦中にいる時、
誰だって「助けて欲しい!!」と思います。
そしてその苦しさから解放を求めるのです。
しかし、主が望まれているのは、
主が今、私に語ろうとされいているという事。
「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」と
サムエルが言ったように、
「主よ。私に今、語ろうとしている事を、
私が知る事が出来ますように。」と祈れるようになりたいです。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)