イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。
へブル13:8
昨晩、子どもの学校に用事があり、帰りが遅くなりました。
家の近くまで来た時に、
保育園にお迎えに来たママと子どもが手を繋いで歩いていました。
「ママー、お月様もお星さまもないよ~」と話しかけていました。
「そうねー今日は雲が多いね~」と話していました。
その会話を聞いて、長男が幼い時にも同じ会話をしたのを思い出しました。
「どうして月・星がないのか」
「星の前に雲が沢山あって見えないだけだよ。本当は星も月もあるの」と
説明しても「ふーん…」と
余りピンときませんでした。
しかし、雲がはけて月が顔出すのを見た時、
「あ~!」と長男が理解した瞬間の顔を思い出しました。
また、こんな事も言いました。
保育園からの帰り道「お月様はどうして僕について来るの?」
もちろん、月が付いてくるわけはないのですが、
付いてくるように見えます…
私たちが少し歩くと、周りの景色は変わります。
さっきまで目の前にあった建物は、過ぎ去れば小さく見え、遠く感じます。
しかし、月と私たちは凄く凄く離れているので、
私たちが、少し歩いたぐらいでは、月は小さく見えないのです。
だから移動する事により、目の前の周りの景色は変わるのに、
月は変わらないので、付いてくるように感じると言う錯覚。
これを幼児に説明するのは難しい…
長男が「僕の歩く方についてくるって、神さまみたい!」と言っていたのを思い出しました。
「どうして神さまみたいなの?」と聞くと
「僕の事を心配してるから、付いてくるんだよー」と。
今思えば、ある意味そうかもしれません。
私たちが主に背を向け、月から逃げようとしても、
月と私たちの距離はさほど変わらない…
逃げた所で…という感じです。
そして近くにある建物や車、行きかう人たちは、
自分が移動すれば、自分から過ぎ去るものばかりです。
しかし月は、私が動いてても、月との距離は大して変わらないので、
私が何処に行こうとも、同じ大きさで存在するのです。
また、月や星もある意味、主と私たちの関係に似ています。
月と私の間に、雲のような問題が生じると、
私たちは途端に、月を見失うのです。
月が何処にいるのか分からなくなるのです。
まるで月が存在しないかのように、当たりも暗くなってしまうのです。
しかし、月や星は、私がどう見ようと、雲があっても無くても、
同じように存在し、同じように光を反射しているのです。
どうしたら、月が変わらず存在していると分かるのでしょうか。
私たちが自分で解決できない問題があるように、
月の前の雲を除ける事はできません。
長男のように、実際に雲がはけ、月が顔を出すのを見れば、理解できるのです。
つまり、経験です。
雲がはけるように、主が問題を解決して下さる過程を体験すれば、
変わらず主が存在すると実感できるのです。
しかし、全ての人が、主が問題を解決して下さるのを見れる訳ではないのです。
主に「解決」を求め続けた者だけが、
主の御業を見れるのです。
主に求めない場合は、
偶然… 何となく…
時間と共に解決しただけ…で終わってしまいます。
単に辛かった時間を耐えただけ。になってしまうのです。
そうなると「月が存在する日」と「存在しない日」があると感じるようになります。
つまり、主が共に居て下さる事もあれば、居て下さらない時もある…
昔は、主が共に居て下さると感じたけれど、今は…わからない…となるのです。
月を見失うように、主が共に居ると分からない時…
ある意味チャンスです。
主に解決を求め、主を経験するのです。
「私に分かるように、主が解決して下さい!」と祈るのです。
今日、主を感じる一日となりますように‼
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)