問題の原因は何か【ヨハネ9:1-3】

2023年

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。

ヨハネ9:1-3

神の子とされた私たち。

主に出会い、今までにない満たされた思いを経験し、信仰を持っても…

その信仰が揺れ動く時があります。

信仰を一番、揺れ動かす原因は何でしょうか。

自分に「問題」が生じるからだと思います。

思いもよらない問題が身に降りかかり、私たちを苦しめるから。

問題が生じるとどうして苦しく感じるのでしょうか。

自分が、その問題に勝てないからです。

自分にとって解決が困難だと感じるから、苦しく辛く感じ、全てを投げ出したくなったり、

生きて行くのが辛く感じるのです。

問題が生じると、まず私たちの頭に思い浮かぶ考えは…

「どうして?」だと思います。

「どうして、こんな事が起こるんだろう」

「どうして、こんな事を言われないといけないんだろう」

「どうして、私は病になったんだろう…」

このような問いが頭をグルグルと回ります。

しかし明確な理由(答え)が見つかりません。

私たちは、問題が生じると、それに対する理由(答え)を求めてしまうのです。

どうして理由を求めるのでしょうか。

理由を知ることが出来れば、その原因を取り除けば、問題は解決できると考えるからです。

自分に降りかかる問題を取り除く為、または解決する為に、問題から解放される為に、

私たちは、「どうして…」と考え、問題に対する原因、理由を知ろうとするのです。

しかし今日の御言葉を見ると、

問題は「主の御業が成される為」だという事が分かります。

私たちは罪を持って生まれ、この世で生きています。

この世の全ての人が罪を持っているのです。

罪が引き起こす問題もあり、自分が引き起こす問題もあります。

しかし、主はそれらの問題を用いて主の御業を成して下さるというのです。

私たちは、皮肉なもので、何の問題もない日常を過ごせば、主を忘れてしまう存在なのです。

問題があるからこそ、主を呼ぶことが出来る存在なのです。

主は、問題を用い、私たちに語りかけ、主を体験させようとされています。

…問題に対する「理由や原因」を知ろうとする思考は、

どこかで「自分で解決できる」という思いがあるように感じます。

まず、主に祈り、どうすればいいのか…と聞く前に、

私たちの頭は、「どうしてだろう?」「これが原因?」と思考を巡らし、出来れば早く取り除き、問題からの解放を試みよういう思いがあるんだと思います。

「主の助けを求めなくても、自分で出来る…」という思いが、自分の中にまだあると言う表われでもあると思います。

私たちが自ら、問題に対する原因を探り、問題の解決の試みに思考が集中すると、

一番大切な、主の語りかけ、体験をスルーしてしまうのです。

問題が生じた時…

主が語られる時。主が御業を見せられる時。主を体験する事が出来る時。

問題が生じた時…

「主よ。語って下さい。主の御業を見れる事を感謝します」と祈れるようになりたいです。

今日も、主と共に時間を過ごす一日となりますように!!

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