人生の終盤に後悔しないように【ローマ12:1】

2023年

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

ローマ12:1

先日、仕事で病院へ行きました。

いつも早めに病棟に入るのですが、入るとすぐに仕事を頼まれます。

この日は「見守り」を頼まれました。

少し痴呆がある90代の女性。個室でベットに座っていました。

「Aさん。こんにちは! 〇〇と言います」と声をかけると、ずっと良く分からない言葉で独り言を言っています。

私「Aさん、どうしたの? どこか痛い所ありますか?」

A「おとうちゃんも、おかあちゃんも、おばあちゃんも、みんな死んだ。私は1人… もう死にたい…」と言うのです。

どうやら、ご主人も数年前に亡くなり、子どもはいるけれど、結婚して独立。

自分の子どもに会いたい…という会話はなく、

Aさんが子どもになった様な感じで、自分の周りの大人が全て亡くなり、自分は独りぼっちになってしまったと泣くのです。

そして両親と祖母に会いたい… と。

Aさんの背中を擦りながら話を聞いていました。

少し話を変えようと「Aさんはどこの生まれ?」「どんな仕事をされてたの?」

「今までで一番嬉しかった事ってなにですか?」とか。

すると、悲しさから少し離れ、昔の良き思い出話が始まりました。

親は裕福ではなかったけれど、でも食べるのに困る事もなく育ててくれた事。

頑張って仕事を続けてきた事。

仕事が成功した話は、さっきまで ‟寂しい…” と泣いていた姿とは違い、

元気が蘇り、声にも力が入ります。

でも最後に「今まで、懸命に生きて来たけれど、結局は人は死ぬ。どれ程頑張っても、それ(成功)は死ぬ時は置いていかないといけない。人生って虚しい…」

…Aさんの身体は凄く小さく、背骨も驚くほど丸く前屈みに曲がっています。背骨はゴツゴツとした感触があります。

髪も白髪で、手も腕もシミやシワ。

90年近く「懸命に生きて来られたんだな」という姿を感じました。

若い時は、身体の左右のバランスや歯の嚙み合わせ、姿勢や体幹などを気にします。

バランスが取れていないと体に不調として現れるからです。

Aさんの身体はもう背骨はもとのように真っ直ぐになるのは不可能なんだろうな…と思えるほど丸くなっています。

若い時とは違う姿。時間をかけてゆっくり変化してきたのです。

Aさんのもう元に戻す事が出来ない姿が、Aさんの心の状態のように感じました。

私たちは、人の心(傷)の状態を目に見る事は出来ませんが、

Aさんの若い時とは違う、変わり果てた姿(外見)が、Aさんの心の状態のように感じたのです。

Aさんの心は、もう治療が不可能なほど、傷つき痛みボロボロになっている…それを実際に目で見たように感じました。

あぁぁ… 主の目には、私たちの心がこのように見られているのかも…

Aさんは若い時、自分の成功を自分の自信、自慢、自分の価値として生きて来たのです。

でも人生の終盤になり、それが何の役にも立たないと気付いたのです。

成功の体験が自分を支える大切なものだったのです。

しかし今、自分の人生を振り返って見ると、成功が自分にとって慰めにも力にもならないと気付いたのです。

この世の成功や、名声、富が与える幸せは一時的なものであり、人生を保証するものでもなければ、死んでからの世界を保証するものでもない。

という事を、私たちは、自分ではない他の人の人生で、このように話を聞くと理解できます。

頑張って手に入れた成功も、いつかは役にたたなくなるのです。

しかし、自分の人生に照らし合わせたらどうでしょうか。

Aさんが持ち続けてきた大切な成功。

主に明け渡す事が出来ず、ギュッと手に握った「自分の大切なもの」はないでしょうか。

努力の結果や、自分のプライド、自分の仕事、家族、富、学歴など…

主に明け渡すことが出来ずにいるもの…

手を開かず自分の手をギュッと握りながら、「主よ。主よ…」と祈っているのかもしれません…

主に明け渡す事が出来ず、握りしめているものはないか…

主に委ねる事が出来ずにいるもの。

人生の終盤になって、それが自分にとって取るに足りないものであったと気付くことがないように。

今、手を広げ、主に全てを明け渡す事ができますように…

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