イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。
それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。
イエスは彼に「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群集が来て、イエスに手をかけて捕らえた。
マタイ26:48-50
昨日、ブログで「後悔」と「悔い改め」について聖書を確認しながら書いていました。
その時に、目に留まった聖書の箇所に驚きました!
驚き…主って本当に素晴らしい…と思いました。
それが今日の御言葉です。
ユダはイエスさまの弟子として3年半、寝食を共にし過ごしてきました。
イエスさまが起こされた奇跡の数々を横で見てました。
水をぶどう酒に変えられたり、5つのパンと2匹の魚を5000人に食べさせたり、
病の者を癒したり、死者を蘇らせたり、沢山の人に愛を持って語りかける姿を見て来たのです。
イエスさまの人格、愛、哀れみ、知恵や権威…
ユダは全て近くで見て来たのです。
しかし、ユダはイエスさまを銀貨30枚で売り渡してしまうのです。
ユダが裏切る少し前に、イエスさまは弟子たちと共に居る時に「この中に裏切り者がいる」と言われました。
イエスさまはユダに「私は今、あなたがしようとしている事を知っているんだよ」とアピールされたのです。
この言葉を聞いても、ユダは自分がしようとすることを留まる事をしませんでした。
ユダは、剣や棒を手にした大ぜいの群集と共に主のもとに現われ、
ユダは、イエスさまに親愛を表す行為の口づけをしました。
しかしそれは、イエスさまを確実に捕らえる為の合図だったのです。
イエスさまは全てご存知でした。
主は、全てをご存知でありながら、
ユダに対して「友よ」と語りかけられているのです!
…主は、最後の最後まで、ユダが自分の愛を思い出すようにと願いを込められていたのです。
「ユダよ…どうしてあなたは私を裏切るんだ?」と言われたのではなく、
「どうして銀貨30枚というわずかなお金で私を売ったんだ?」
「私の愛を忘れたのか?」
などという事を言われなかったのです。
主が自分を裏切ったユダに対して、最後にかけられた主の言葉は「友よ」なのです。
「友よ。何のために来たのですか」
この言葉に、ユダを責めたり、問いただすのではなく、
「友よ。あなたは今、自分が何をしているのか分かっているのか?」
「本当にこれをしようとするのか…?」
「私の愛を思い出して欲しい…」という思いが見えます。
主は、自分を裏切る者に対しても、最後の最後まで立ち返ることを期待し、
「友よ」と語りかけて下さるのです。
主は、私たちの「自由意志」を大切にされています。
私たちに目の前の物事を選ぶ自由を与えられているのです。
ユダは裏切る事も出来たし、立ち返る事も出来たのです。
しかしそれを選ぶのは、主ではなくユダであり、私たち人間なのです。
主が人間を創造された時から大切に取り扱われてきた「自由意志」
これには、私たちが「選び取る自由」と「それに伴う責任」があるのです。
イエスさまの身近で接していたのに、どうしてイエス様を銀貨30枚で売り渡したのか…
その理由は聖書に書いてありません。
聖書に記録されている事は、ユダが銀貨30枚を受け取ってイエス様を引き渡したこと。
そしてそのことを深く後悔してユダは自分で命を絶ったこと。
そんなユダのことをイエスさまは最後まで愛しぬいたこと。
裏切ったことも受け止めて、なお「友よ」とユダが帰って来ることを待ち続けたイエスさま。
そして、そんなユダの為に、ユダのような私たちの為に十字架へと向かっていかれたイエスさま。
私たちはユダのような失敗をしてはいけない…
良心を通して、内なる声を通して
今日も、主は私たちに「友よ」と語られているかもしれません。
私たちが行う一つ一つの行動。
口から出る一つ一つの言葉。
目の前にある選択。
留まるべきかどうか、主に尋ねながら歩みたいと思います。
今日も、主と共に歩む一日をお過ごしください!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」