イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
ヨハネ11:40
「信仰する」「信じる」ってどういう事なのでしょうか?
聖書が教える「信じる」を考えたいと思います。
聖書を見ると、いくつもの共通した「信じる」を見つける事が出来ます。
まず、イスラエル民族が出エジプトをしていた時、モーセがリーダーでした。
モーセが亡くなった後、モーセを継いで指導者になったのがヨシュアです。
主はヨシュアに、
「主の契約の箱を先頭にして、ヨルダン川を渡り、民はその後ろを進んで、カナンの地に入りなさい」と言われました。
時期的に水かさが最も増していた時期…
想像したら分かるように、水かさが増し、川の流れが速いのです。契約の箱を担ぎながら、川を渡るなんて… 川の流れに身体が持ってかれると思いませんか?
民が川に足を入れた時、流れる川の水はせき止められ、濡れずに川を渡ったのです。
流れが止まり、川に入ったのではなく、川に入ると流れが止まったのです。
また、マルタとマリヤの兄弟、ラザロが死んだ時、
イエスさまはラザロが病気であると知っていながら、
ラザロの死後4日経ってからラザロのもとに来られたのです。
イエスさまは、ラザロの墓に行かれ、墓の入り口に立てかけてあるのを見て
「その石を取りのけなさい」と言われました。
マルタは「死後4日経ち、臭くなっています」と言いました。
それに対して主の返答が、今日の御言葉です。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」
彼らは墓の石を動かしました。
そして主が「ラザロよ。出て来なさい」と言われると、ラザロは生き返ったのです。
この2つの話から分かる事は、
「信じる」とは「納得」とは違い、「主の言葉に従うこと」なのです。
納得したから、従うという、この世的な順番ではないのです。
もし、主が言われるように、
ヨルダン川に足を入れなかったら、
お墓の石を取りのけなかったら、
どうなっていたでしょうか。
口だけで「主を信じます」「主を愛します」と言い、主の言葉に従順しなかったら…
理屈に合わない主の言葉ではなく、
常識的な判断で物事を見比べ選択していたら…
あの石をとりのぞかなければ、ラザロは生き返らなかったと思います。
川の流れの速さに心奪われ、川に入る事を拒絶していたら…
川の流れはせき止められず、目的地までたどり着けなかったかもしれません。
理屈ではなく、常識でもなく、
「主が言われたから」…その通りにする!
それが聖書が言う「信じる」という事だと思います。
主を信頼し、私たちが従った時、主は働かれるのです。
主は、特別すごく難しい事を要求されている訳ではないのです。
しようと思えば、出来る事を私たちに言われているのです。
しかし… 気を付けないといけない事があります。
ベテスダの池のそばにいた38年間病気だった人のように、
「池の中に私を入れてくれる人がいません」
「他の人が先に降りて行くのです」
という風に希望を持たず、どちらかと言えば怠惰な心でいるのなら…
いつも「不足」や「不満」が心を支配しているなら、
いくら時間が流れても、自分の周りの現状は何一つ、変わらないかもしれません。
主に語られても、肯定的に受け止められないように思います。
心の状態が、チャンスを逃してしまう環境にあるのです。
私たちは、聖書が教える「信じる」という信仰を持つ為にも、
主が私に働かれる為にも…
心の環境を整えたいです。
どの様な状況にあっても「期待」するのです。
主は、ラザロが死後4日経っても、生き返らせることが出来るお方なのです。
不可能がないのです。
主に期待し、主が求められる「信じる信仰」を持ちましょう!
今宵も主と共に、平安な夜をお過ごしください!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」