真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
使徒16:25
夫が私に「聖書に出てくる人物で、イエスさま以外で誰に会ってみたい? 」と聞きました。
私はヨセフファンなのです。求道中に創世記を読んで、ヨセフの話に凄く涙しました。
自分の人生とヨセフを被せたというのと、ヨセフの方が私より遥かに理不尽な人生であり、苦労や寂しさの連続の人生だったのに・・・
「自分の人生は良いもの」
「自分の人生に意味があるもの」
「主に偉大なビジョンを頂いた人生」
・・・自分を売った兄を恨んでも恨み足らない位の出来事なのに、
兄たちの謝罪を受ける前に、自分の方から兄たちの立場に立ち、兄たちが心を痛める前に許しを与えているのです。
そんな事・・・人間業ではないからです。
主を信じる信仰によって、ヨセフのような「理不尽続きの人生」でも「感謝の人生」を歩める
・・という事に何とも言えない思いが爆発し・・
初めてヨセフの話を読んだ時、「え・・これは私の為に書かれた書物なのか??」と思いました。
だから、ヨセフに会ってみたい。会って出来事一つ一つのその時の心情を聞いてみたい。
夫は「そうだよな~ 普通はヨセフとか、パウロとかダビデとか・・だと思うんだけど。パウロとシラスが牢獄に入れられた時の看守に会いたい!!という人がいた(笑)」と言うのです。
私「え?看守って、あのパウロたちが牢獄にいた時に地震が起きて自害しようとした看守?」
夫「そう!その看守に是非会いたい!という人がいる・・」
私「へー面白いね。どうして看守なんだろう・・」
夫「韓国人なんだけど、刑務官(看守)の仕事をしてたらしい。だから、その看守に会って、パウロとシラスが牢獄で賛美をしていたのを耳にした時、どの様に感じていたのか。」
「夜中に自分の家に2人を連れて行き、傷を洗い、家族で洗礼を受け・・その後の人生、どの様に過ごしたのかを聞いてみたい!」
「その後も看守として働いたのか、もしそうだとしたら、牢獄にいる人たちに伝道する者となったのか。その後の人生をどの様に過ごしたのか気になる!」と言われたそうです。
面白いですよね。
人それぞれ、人生があり背景があり、良いものであれ悪いものであったとしても、人生に費やした時間があります。そこから自分と共通を感じる人に惹かれるのかもしれません。
私がこのパウロとシラスの話を読んだ時、
牢獄か・・今の刑務所とは全く違う環境だろうし、衛生的にも劣悪で、汚臭も酷そうだし、日も当たらないだろうし、食事も悲惨だろうな・・ぐらいにしか想像できません。
その過酷な環境の中、無実の罪で牢獄に入れられたパウロとシラス。
しかも投獄される前に鞭打たれ体は傷ついています。
当時のローマ帝国では、容疑者に対して民主的な人権によって取り扱う裁判システムがありました。
パウロとシラスはローマの市民権を持っていました。ですから、鞭打ちや投獄される身分ではなかったのです。
身分を確認せず、無罪で投獄されたのですから、普通であれば無罪を叫んで激怒するはず。
なのに・・2人は賛美していたのです。
この後、地震が起こり牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまい逃げる事が出来る状態だったのです。
囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした看守に、パウロが「自害してはならない、私たちは皆ここにいる」と言いました。
パウロとシラスだけでなく、他の囚人たちも逃げなかったのです。
今日の御言葉を見ると、パウロとシラスの賛美と祈りを、‟囚人たちは聞き入っていた” とあります。
賛美と祈りを聞いただけです。
という事は、パウロとシラスの賛美は、‟無罪でありローマ人であるにも関わらず、理不尽にも鞭打ち、投獄された” という「怒り」「屈辱」「悔しさ」と言った思いが詰まった賛美ではなかったのではないでしょうか。
本来であれば、辛く苦しい立場に立たされたけれど・・がんばろう!というような決意を表すような賛美になってしまいそうです。(私がパウロであれば)
多分・・そのような主の「憐れみ」や「助け」を求める思いが詰まった賛美ではなく、
シンプルに「感謝」が詰まった賛美だったのではないでしょうか。
自分たちが無実の罪で捕らえられた事を、主に感謝。
痛い鞭で打たれたことを感謝。
劣悪な環境である牢獄に入れられたことを感謝。
木の足かせをはめられていることを主に感謝。
そこには神の何らかのご計画がある。
きっとすばらしいことに変えられる。
・・そのような思いで賛美と祈りをしたのではないでしょうか。
それを耳にした他の囚人たちは、心が動かされたのではないでしょうか。
・・・刑務所に全く詳しくない私が想像できるのは、ここまでです。
しかし、この看守に会ってみたい。是非色々な話を聞いてみたい!と願う刑務官の人は・・
この聖書の箇所を読んで、私より遥かに色々な疑問や想像が出来たのではないでしょうか。
私は「この看守がその後も看守として働いたのか」「この看守は証しする者として人生を過ごしたのか」と、看守のその後まで、想像出来ませんでした。
刑務官ですから、普段から投獄された人たちの状態を見て来ているはずです。
刑務所という空間に入れられた時の人間の本来の姿を長年見て来ているのです。
しかも、パウロとシラスは冤罪です。
刑務官にとって普段から見ている投獄された人々の精神状態や態度・・それを踏まえてこの聖書の箇所を読めば、私が感じる以上の疑問や想像が出来ると思います。
イエスさまが十字架に架かって亡くなった時に、百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と悟りました。
普段見ている死刑囚と、目の前のイエスさまは、何か違うものを感じたのです。
その何かが・・「まことの神であった」と告白させるほどのものなのです。
この刑務官も、普段から見ている囚人との差に疑問を感じたんだと思います。
私がヨセフに会ってみたい!と思うように、この刑務官にとっては、看守に会いたい!会って話を聞いてみたい!と思うほど、この話の個所はこの方にとって心が奪われる個所なのです。
この話を夫としながら、思い出した証があります。
長く求道生活を送って居られた方が、主を信じる決心が出来た聖句が、創世記6:15だったという証です。(23.4.18ブログ後半に記載)
「それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト」
この御言葉を読んで、誰が「主が神である」と感じるのでしょうか・・
目の前の人が、どの様な言葉に心開くか、心に響くかなんて、私たちには分からないのです。
聖書を読んで、凄く感動したり、心が動かされる箇所があります。
その反面、これは一体何の話なんだろう・・とスルーしてしまう個所も多いです。
私が何とも思わずに読み過ごしている聖書の箇所に、驚くほどの恵みが隠されているのです・・・
だから、証や分かち合いって大切ですね!
自分が感じる主を分かち合う・・
その分かち合いを通して、自分の知らなかった主に出会えるのです。
今日も、主の恵みを分かち合うことが出来る一日となりますように!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」